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タトラとハンス・ルドヴィンカ(1)

 ずいぶん昔の話だが、フェルディナント・ポルシェ博士の甥と会ったことがある。ポルシェ博士に関するエピソードを聞いたのだが、ポルシェ博士が最も評価していたのはハンス・ルドヴィンカだったそうだ。
 それ以来、ハンス・ルドヴィンカに対する興味を持った。
 その後知ったのだが、ポルシェ博士はルドヴィンカのアイディアをデッドコピーしてVWビートル(タイプ1)を作ったという説が流布されているようだ。しかし、これは穿った憶測に過ぎない。なぜなら二人には交流があり、むしろ盟友だったといえるかもしれないし、技術的な議論をし、情報交換を行っていた。当時の小型乗用車の技術的なトレンドを作り上げたルドヴィンカ、そのトレンドを踏まえた上で国民車を模索したポルシェといった構図になると思う。
 VW KdF(ビートル)はタトラ持つ特許の10点を使用したとしてタトラはVWに特許料の支払いを求めた。これは無視されたが、第2次世界大戦後にVWは戦時補償費を含めてタトラに賠償を行っている。

Ledwinka_Porsche-1.jpg
↑F.ポルシェ(左)、チェコの女性レーサー、エリザベト・イェネック(中央)、H.ルドヴィンカ(右)1935年。

 ポルシェもルドヴィンカも、オーストリア・ハンガリー帝国に生まれた。ポルシェは1875年生まれ(チェコ地方)、ルドヴィンカは1878年生まれ(オーストリア地方)である。
 ポルシェは主としてオーストリア、ドイツで仕事をし、ルドヴィンカはオーストリア・ハンガリー帝国の瓦解に伴い独立したチェコの自動車メーカーで設計を行った。当時のチェコは、東ヨーロッパ、いや当時のヨーロッパの中で先進的な工業国であり、CKD、シュコダ(1901年から自動車製造)、タトラ(ネッセルドルフ車両製造会社)といった重工業メーカーが存在し、幅広い分野で高い技術を発揮していた。自動車に関しては、ダイムラーの自動車が登場した直後には、チェコでも自動車製造が始まっていた。
 第2次世界大戦直前の1938年にチェコはナチス・ドイツに併合されてしまったが、当時のドイツの初期型戦車、Ⅰ号、Ⅱ号戦車よりCKD製の軽戦車38tのほうが技術的には上で、ドイツは38tの価値を認めてCKDに生産を長く続行させた。またチェコのブルノ兵器廠製のBZ26(1926年型)軽機関銃は世界を席巻する。日本軍は従来の信頼性に乏しい軽機関銃をBZ26のコピーに切り替えた。このように概観するとチェコの技術的、工業的な先進性や実力が認識できる。
 
 ポルシェは、オーストリア、ドイツで自動車設計技師として各メーカーで実績を残した後に、ドイツのシュツッツガルト市に自らの設計事務所を設立した。この結果、ポルシェはドイツの傑出した自動車設計者(戦史上では常軌を逸した迷設計者とされる)とされる。ルドヴィンカはチェコのネッセルドルフ車両製造会社の設計者となり、一時期はオーストリアのシュタイア社に移るがその後はネッセルドルフ車両製造会社に復帰し、最後までここ(後のコプジブニツェ社→タトラ社)に在籍し、自動車設計を行った。
 ネッセルドルフ車両製造会社は、1897年から東ヨーロッパで最初のガソリン自動車製造を開始し、1898年にはトラックも製造を開始している。ダイムラーは1886年にガソリン自動車の特許を取得したがその後10年で同レベルの自動車を製造したのだ。ルドヴィンカは97年年に同社に入社し、まずエンジンを設計した。ルドヴィンカは半球形型燃焼室を持つOHCエンジンを実現し、1905年型のモデルS-4に搭載。その後は6気筒のS-6を設計し、当時の高性能車となりレースでも優れた成績を残した。当時はサイドバルブ式のエンジンが常識であったからいかにルドヴィンカのエンジンが先進的だったかわかる。
 ルドヴィンカは1916年に経営方針が変わったため同社を離れ、オーストリアのシュタイア社に移りサスペンション、駆動システムの設計に携わった。ここでジョイントレス・スイングアクスルの基本を身に付けたのだ。1921年にネッセルドルフ車両製造会社に呼び戻され、主任設計者となり、1100ccの小型車、T11を開発した。このモデルからタトラというブランド名が付けられた。T11は鋼管製バックボーンフレームを採用し、このバックボーンはプロペラシャフトを収めるトルクチューブとして機能する。フレームの先端に、空冷式水平対向2気筒OHVエンジンと変速機とを剛結配置し、構造部材としている。フロントサスペンションの車軸を支える横置きリーフスプリングはエンジンに直接固定された。またリヤはリヤデフ上に固定された横置きリーフスプリングのアームとジョイントレス・スイングアクスルによる平行リンク式の独立サスペンションであった。簡潔かつ強度が高く合理性を極めたシャシー、パワートレーン・レイアウトである。
 
T11_Chassis-1.jpg
tatraChassisT11.jpg
↑T11の鋼管バックボーン・シャシー。空冷2気筒エンジンがトルクチューブを兼用のバックボーン鋼管の前端に剛結される。

 ボディは箱型セダン、トラックがラインアップされ、ベストセラーとなった。このT11はその後は4輪ブレーキ化、フロント・サスペンションの独立懸架化などの改良を行い、1925年のタルガフローリオでは1100ccクラス優勝を遂げている。
 
 この大成功により、ジョイントレス・スイングアクスルと鋼管バックボーンフレームは、タトラの基本技術となった。1926年にはセミ・キャブオーバー型のT23トラック(4気筒7478cc/64HP)、27年には後輪を2軸とした6輪トラックのT26など大型トラックもラインアップされた。当時も今も、独立懸架を持つ大型トラックは異彩を放つ。ちなみにメルセデスベンツがリヤにスイングアクスルを採用したのは1931年である。
 1929年には6輪10t積みの大型トラックT24を発売。水冷6気筒12215ccエンジンは114馬力を発生する世界トップレベルの高性能トラックであった。そして、1930年に油圧ブレーキ装備の3t積み中型トラック、T27を発売し、このモデルはなんと1947年まで生産された。
 1933年に開発された全輪駆動のT72は空冷エンジンを搭載。オーバーヒートや冷却水凍結の恐れがないこのタフなトラックは翌年のベルリン・モーターショーに出品され、アドルフ・ヒトラーは強いが関心を抱いた。オーストリア出身のヒトラーは同郷の有能なルドヴィンカに敬意を払った。(ポルシェもヒトラーに重用されたことは有名だが、その前にはスターリンにも声をかけられた経歴がある)モーターショーの夜、ヒトラーは自室にルドヴィンカを招いて意見を交わしたという。
 ルドヴィンカは、以後はトラックには空冷ディーゼル・エンジンをラインアップし、空冷エンジンは気筒ごとに独立したシリンダーヘッドと組み立て式クランクシャフトにより、気筒数を自由に選ぶことができるようにした。1942年には空冷V12ディーゼルの6輪大型トラック、T111を開発。後輪スイングアクスルのこの大型トラックはドイツ軍に愛用され、戦後にはソ連軍でも多数使用された。このモデルは1962年まで生産され、その後の新型モデルもこの血統を現在まで受け継いでいるのだ。
 
 ルドヴィンカは乗用車に空冷エンジン、ジョイントレス・スイングアクスル、鋼管バックボーンフレームをいち早く採用したが、ボディに関しては箱型セダン形式を採用していた。ボディに関しては、1921年に航空機エンジニアのエドムント・ルンプラーがトロッペンワーゲン、すなわち流線形車が話題を集めた。トロッペンワーゲンは当時のコンポーネンツ・レイアウトを前提にした流線形ボディを架装したものだが、今日の空力測定ではCd=0.28といわれている。

tropen.jpg
↑トロッペンワーゲン

 しかし当時の自動車界により大きな影響を与えたのは、ハンガリー出身でツェッペリン社のエンジニアのパウル・ヤーライの流線形理論であった。ヤーライは流線形ボディのコンセプトとパッケージングを両立させ、デザイン的な美しさを加えた。これはその当時のデザイントレンドを作り出したバウハウス・デザインとも一脈通じるところがあると思う。
 ヤーライの理論は、当時のポルシェやルドヴィンカにより大きな影響を与え、ルドヴィンカとヤーライとは新たな小型車でコラボレーションも行っている。これによってルドヴィンカは流線形ボディをマスターしたのである。
 ルドヴィンカは次なるステップとして新しい小型車を構想した。ルドヴィンカはこの小型車は従来から実現してきた技術に加え、最新の流線形ボディ、空冷リヤエンジンという新たなアイディアを投入することにした。
 1931年、ルドヴィンカとエーリッヒ・ウーベルレッカー技師は、新しいパッケージングの小型乗用車、V570を試作した。空冷の水平対向2気筒エンジンをバックボーンフレームの後端に搭載したRR駆動方式である。このV570と相前後して量産中型車、T57が開発されたが、このモデルは空冷4気筒エンジンを従来のようにフロントに配置した。このT57のボディのためにヤーライが流線形ボディをデザインしている。ただしこれは量産モデルとしては実現しなかった。さらに33年、ヤーライは小型車V570の改良型プロトタイプのために新たな流線形ボディをデザインする。これこそ後のVWビートルの原型になったといわれるデザイン&パッケージングである。
 しかし実はこの時代にはタトラだけではなく、ポルシェもドイツで小型モデルを数多く試作していた。ポルシェはもともと大衆向けの小型車を設計することも理想のひとつとしていた。そのためポルシェはワンダラー、ツンダップ、NSUなど小型車を得意とするメーカーで試作車を設計、試作している。いずれの試作車もヤーライ理論の影響を受けたポルシェ社のデザイナー、エルヴィン・コメンダが参画し、流線形デザインとしていた。非力な小型車であるため空気抵抗が小さな流線形とすることで高速性能が発揮できると考えられたのだ。(ただ、1932年に中小メーカーが再編され、アウトウニオンを結成するなど激動の時代であったため、ポルシェの試作車はいずれも量産化されなかった。ポルシェの小型車構想が一挙に実現に向かうのは、33年に成立したナチスによる国民車構想が掲げられたことによる)

V570_Prototype_1931-2.jpg
↑V570 プロトタイプ

V570_Prototype_1933-1.jpg
↑ヤーライのデザインを取り入れたV570 プロト2

T57_Jaray_CAD_Reconstruction-2.jpg
↑ヤーライがデザインしたT57改を現在のCADで復元したもの

nsu.jpg
↑ポルシェ博士がNSU社のために設計した1932年プロトタイプ(タイプ12)

VWtype30.jpg
↑ポルシェ博士が設計したVW用試作車のシャシー(1936年)バックボーンシャシーはタトラ方式であることをポルシェ自ら公言している。

 ただ、いうまでもなくヤーライが直接的に協力したタトラV570プロトⅡが本家本元の流線形デザインであったことはいうまでもない。
 しかしタトラの経営者は、こうした大衆向けの新しい小型車に否定的で、レドヴィンカに対し新しいリアエンジン車は付加価値の大きい大型車で行うように命じ、V570計画は破棄させた。この経営者の決断は、その後のタトラの乗用車の方向を決めたといえるかもしれない。

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