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スピード(1)

 スピードはクルマの原点のひとつだろう。そして、クルマのスピードはクルマが誕生して以来常に大きなテーマになってきた。
 クルマがこの世に登場した時には、馬車より速く走ることができることを証明することが重要だと考えられた。
 まだエンジンで動くクルマは懐疑的な存在であり、騒音や臭いガスを撒き散らすやっかいな存在とされ、イギリスでは新しいものが好きな貴族がクルマに乗ると罰金が科せられた。1865年には赤旗条例が制定され、クルマを市街で走らせるためには、乗車員2名の他に、もう1名が赤旗を振りながらクルマの前方を歩くことが決められていた。さすがに1878年には赤旗は廃止されたが、乗員は前方の馬車の馬の興奮をなだめるために馬車の御者と協力する義務があり、クルマの法定最高速は市街地で3.2㎞/h、郊外で6.4㎞/hと、不当に低くされた。
 イギリスでは1895年に、ようやくクルマの前方を乗員が歩く必要がなくなり、市街地は19㎞/h、郊外は22㎞/hの最高速度に上げられた。この規制緩和を記念したロンドン-ブライトン・ラン(レース)の優勝車は平均時速26㎞/hで完走したという。
 
 世界初のレースは1887年にフランスで雑誌社が企画した試走会といわれているが、この時は参加台数1台で、ド・ディオン伯爵の駆る蒸気自動車がただ1台で試走を行った。
 もっと本格的な自動車レースは1894年にフランスの新聞社の主催で行われた「パリ-ルーアン・馬なし馬車による競争」だった。参加資格は50kmを4時間以内で走破できるクルマとされたが、参加車は120台にのぼった。ガソリン・エンジン車、電気自動車、蒸気自動車、圧縮空気エンジン車、水圧エンジン車などなまざまな動力のクルマが集まったが選抜走行でガソリンエンジン車が37台、蒸気エンジン車が29台に絞られ、さらに予選で21台となり、決勝に進むことになった。もちろん都市間レースのため、電気自動車は航続距離が不足し参加できなかった。
 この画期的なレースでは4台が完走し、トップでゴールしたド・ディオン伯爵の蒸気エンジン車はメカニック同乗であったため、単独走行のパナールが1位、ド・ディオンが2位とされ、プジョーが3位とされた。なおパナール、プジョーともに、搭載エンジンはダイムラー社のマイバッハ技師が設計したエンジンだった。そういう意味で言えば、ガソリン・エンジンの特許を取得し、製造したのはダイムラーであったが、レースで性能を実証したのはフランス人達だった。
 この第1回レースはクルマの信頼性を実証するための大イベントあったが、1895年の2回目は、さらに長距離のパリ-ボルドー往復レースとされ、明確に速度を競うことになった。2座席車は優勝扱いとはされず4座席以上のクルマに優勝の権利があり、7人乗りの蒸気エンジン・バスも参加した。
 このレースでは2座席のルバッソールがトップでゴールしたが2座席車であったため、公式優勝は4座席のプジョーが獲得した。なお、ルバッソールは1171㎞の行程を平均時速24km/hで走破している。
 翌年の1896年には、パリ-マルセイユ往復(1795㎞)のレースが行われた。参加したのは4輪車が24台、3輪車が4台で、蒸気エンジン車が3台、他はすべてガソリン・エンジン車となった。
 この長距離レースでは、ドライバーはいずれも悪天候の中でのコースアウトや故障、事故などを経験する大冒険を強いられたが、またもやパナール・ルバッソールが優勝し、平均時速は25.6㎞/h。つまり当時の路面の荒れた狭い道路を50㎞/h以上の速度で走っていたことになり、そのスピードを実証した。当時は未舗装路であり、貧弱なブレーキとタイヤ、重力式のオイル潤滑、さらのコース途中での修理も必須であったことなどを考えると、恐るべきスピードで街道を走っていたことになる。
 このレースの模様をレポートしたイギリスの自動車雑誌の記者は、「自動車はすばらしい。スピードが速くなればなるほど気持ちはわくわくし、その楽しさは表現しようもない」と書いたそうだ。なお、このレース中に犬が15匹、轢き殺されたと伝えられている。
 1898年には、私的にではあるが、フランス人貴族がパリの近郊の道路区間1㎞での最高速記録に挑み、電気自動車を使用して62.8㎞/hを記録している。この時点では、最高速は電気自動車のほうがガソリン・エンジン車より勝っていたのだ。
 
 1900年代に入ると、ヨーロッパ、アメリカなどでクルマのスピードを競う競技会は激増し、ヨーロッパではグランプリ・レースも開催されるようになっている。また1921年にドイツのベルリン郊外に完成した世界初の自動車専用道路を兼ねたサーキットでもあるアヴァス(自動車交通および運転習熟用道路の頭文字。後のアウトバーンの先駆)では、並行する長い9㎞の直線路を繋ぐ折り返しのバンクでも160㎞/hで走行でき、完成後に行われた1931年のレースでは平均速度185km/h、36年のレースでは、メルセデスベンツ・レーサーの平均速度260㎞/h、そしてアウトウニオンのPワーゲンに乗るB.ローゼマイヤーは非公式で平均284㎞/hに達していた。この当時のレース用タイヤは、今日のものと比べて格段にグリップ力が低く、極細であったことを考えれば、いかに当時のレーシングカーのスピードが強烈であったかわかる。
 一方、公道でのクルマのスピードは、クルマ自体の性能だけではなく、道路、タイヤなどにも大きく影響されたが、例えばドイルでアウトバーンの建設が着手された1920年代後半には、こうした自動車専用道路では100㎞/h以上のスピードで走行することが考えられていた。ヒトラーが1933年頃に提唱した国民車構想でも、廉価な大衆車であるにもかかわらず、アウトバーンで100㎞/h以上の巡航スピードが要求されていたことはよく知られている。
 なお1939年頃にトヨタ自動車で開発された小型車(4気筒SV・2.2Lエンジン)、新日本号の最高速は97㎞/hとされているが、これは平坦な滑走路のような場所でのデータで、アウトバーンでの巡航スピードを想定すればせいぜい50㎞/hあたりだろう。
 第2次世界大戦により、乗用車の製造は全面的にストップし、したがって戦争が終わってもしばらくは、各国とも戦前型の乗用車の生産を再開することや、超小型のミニカー作りから戦後のクルマの歴史が始まった。こうした戦後復興期は1950年頃まで続いた。そして50年代半ばからは戦後設計の高性能車が登場するようになる。
 戦後の復興期の1956年に登場したメルセデス・ベンツ220aは、フロント・ダブルウイッシュボーン、リヤ・ローピヴォットスイングアクスルという4輪独立懸架、6気筒OHC・2.2L、100psエンジンで160㎞/hの巡航が可能であった。当時の日本製のクルマの代表格である初代トヨタ・クラウンは1.5Lと1.8LのOHVエンジンが搭載され、公称最高速は100km/hとされていたが、これも実際の巡航最高速は70km/hていどであろうから、彼我の差はきわめて大きかったといわざるをえない。
 
 

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