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KdFワーゲン(2)

 現在も過去も、一般的に国民車というイメージは、質素で小型・低性能の、価格の安いクルマと考えられがちである。しかし、KdFが企画した国民車とは、大人2人と子供3名の乗員と旅行用の荷物を積載し、アウトバーンを100㎞/hで巡航できる画期的な高性能車であることが要求されたのである。
 同時に、販売価格は1000マルク以下という厳しいコスト要件が加えられている。(1931年に発売された2ストローク2気筒15psのDKW・F1が1685マルク、23ps、最高速85km/hのオペルP4が1450マルクでこれらが当時最も安価なクルマであった。KdFワーゲンの価格的は小型オートバイと同等であった。現在のイメージ的では1000マルク=100万円)後にKdFワーゲンは990マルクの価格とされた。
KdFワーゲンとしての要求は、この他に頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること、100㎞あたり7L(14.3㎞/L)以上の燃費、空冷エンジンの採用などが付け加えられている。
 つまりKdFワーゲンは価格的にはまさに国民車のイメージそのものといえたが、要求性能はこの時代のクルマには実現不可能なほど高い高性能車だったのである。
 したがって、KdFワーゲン、後のフォルクスワーゲン・タイプ1の本質は、一般的な大衆車、国民車のイメージとはまったく違うということを認識しておく必要がある。
 38年にはアウトバーンは総延長3000㎞に達し、クルマには高速巡航性能が重視されるようになったが、同時に田舎の村落の狭い道路でも走り抜けられることがKdFワーゲンに求められた。このためトレッドやボディ幅はできるだけ狭くすることが追求され、その一方で乗員5人の居住スペースを確保できるホイールベースとされている。
 ポルシェ事務所は設計だけではなく試作車の製作も担当し、35年7月に試作1号車(V1)、さらにコンバーチブル・モデルのV2が完成し、36年2月にベルリンで公式発表された。秋に製作されたV3はその年の年末にかけてフェリー・ポルシェがステアリングを握って5000㎞に及ぶテスト走行を行い、性能を実証した。
 フェルディナント・ポルシェはKdF構想が登場する以前から、大衆が購入できる国民車と、高性能スポーツカー、農業用トラクターを作ることが念願であった。そのため、国民車構想は、KdFワーゲン以前にも、ツンダップ社、ワンダラー社、NSU社と共同で試作した経験があったが経済不況などの影響を受け、これらの計画は未完に終わっている。
 その一方で、ポルシェが設計したKdFワーゲンはチェコのタトラの基本設計をまねたとの風説も後に登場した。タトラの主任技師、ハンス・ルドヴィンカはポルシェと同じオーストリア出身で、チェコのタトラ社の主任設計者として敏腕を振るい、1931年にルドヴィンカは新しいパッケージングの小型乗用車、V570を試作した。V570は空冷の水平対向2気筒エンジンをバックボーンフレームの後端に搭載したRR駆動方式であった。さらに33年、空力専門家のパウロ・ヤーライがV570の改良型プロトタイプ新たな流線形ボディをデザインしたプロト2が完成する。これこそ後のKdFワーゲンの原型になったといわれるデザイン&パッケージングであったのだ。
 さらに1937年にはタトラは空冷のSOHC水平対向4気筒エンジンをリヤに搭載したT97を発売した。T97はエンジン、パッケージングとデザイン、性能のいずれをとってもこの時代の最先端であり、KdFワーゲンと酷似していた。それも当然で、ちょうどT97が構想されている頃、KdFワーゲンを開発していたポルシェはルドヴィンカと定期的に会合し、議論をし、情報交換を行っていたのだ。
 ただし、タトラは高級車メーカーのため、T97の価格は、KdFワーゲンの予定価格の5.5倍もし、コンセプト的にも小型の高級・高性能車であり、KdFワーゲンとはコンセプトが異なっている。このタトラ社もまた時代に翻弄され、39年にチェコがドイツに併合されるとT97の製造は禁止され、大型の高性能セダンのT87のみの生産が許された。T87は世界初のフル・モノコックの空力ボディを備え、3.0Lの空冷V8エンジンをリヤに搭載して、最高速は160㎞/hを記録。ドイツ軍の高級将校に愛用されたといわれる。
戦後の1961年に、タトラ社はVW・タイプ1のためにタトラT97が生産停止となり損害をこうむったとして提訴し、VW社はT97の製造停止を補償するための賠償金300万マルクを支払っている。
 ヒトラーは同郷のポルシェと同様にルドヴィンカとも旧知の間柄で、タトラの空冷エンジンに魅力を感じ、KdFワーゲンのエンジンにも空冷化を求めたといわれている。
 ラダーフレームレスのプラットフォーム・シャシー、水平対向のオールアルミ4気筒エンジンをリヤにレイアウトしたRR駆動方式、軽量かつシンプルな4輪独立懸架サスペンションなどはタトラT97もKdFワーゲンも共通であり、当時の最先端の技術を盛り込んでいたのである。ポルシェ本人も、プラットフォームはタトラ式であることを認めている。
 ポルシェは、自らが特許を持つトーションバー・スプリング式サスペンションを採用し、オールアルミ製のOHV水平対向4気筒エンジン、デフを内蔵したトランスミッションなどを設計して組み合わせKdFワーゲンを実現したのだ。
ボディデザインは、当時の最先端の空力エンジニアであったパウル・ヤーライが主張した流線型デザインを採用した。この点でもKdFワーゲンとタトラT97は同様であった。
 KdFワーゲンは、価格、性能、パッケージング、採用技術などいずれの点でも当時の乗用車の常識をはるかに上回っていた先進的なクルマであったことは間違いないし、それだからこそ戦後の長い期間にわたってベストセラーであり続けることができたのである。
 なお、当時の日本の自動車雑誌「モーターファン」(1942年・昭和17年7月号)ではKdFワーゲンが「車架(フレーム)のない後部発動機付き乗用自動車」として紹介されている。
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 しかし、第2次世界大戦が始まり、KdFシュタットではついにKdFワーゲンは生産されことはなく、ポルシェがKdFワーゲンをベースにデザインしたキューベル・ワーゲン(汎用軍用車)、ジュビムワーゲン(水陸両用4輪駆動車)に代表される軍用車の生産に専念することになったのである。
 第2次世界大戦が終了した直後、幸運にもフォルクスワーゲン(KdFワーゲンの名称からフォルクスワーゲンに変更された)の生産は比較的スムーズに再開されることになった。
 フォルクスワーゲンの性能は、排気量1000ccの水平対向4気筒エンジンを搭載し、最高出力33ps、最高速115㎞/h、0→100㎞/h=27.5秒、燃費15㎞/Lは傑出した存在だった。フォルクスワーゲン・タイプ1と同じような経緯を経て戦争直後に生産が開始されたフランスのシトロエン2CVやイギリスのアレック・イシゴニスが設計したモーリス・マイナーなどをはるかに凌駕する性能だったのである。
 またドイツ(当時は西ドイツ)国内では、ダイムラーベンツ社が46年から戦前設計の170Vの生産を再開していたが、その性能は直列4気筒・1.7L で38ps、最高速108㎞/h。フォルクスワーゲン・タイプ1の方がはるかに革新的であり、性能でも勝っていたのである。
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KdFワーゲン(1)

 1933年に政権を握ったヒトラーの率いるナチス・ドイツの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」であった。その名称のように、同年に政府は全ドイツの労働組合非合法とし、党の下部組織として新たに旧組合を統合した「ドイツ労働戦線」が組織された。
 ドイツ労働戦線の目的は「社会的で生産的なコミュニティを構築するため」とされ、労働戦線は労働者と雇用者のお互いの利益を相互に代表する組織と位置づけられた。労働者の賃金は労働戦線の労働管理官によって決定されたが、賃金は比較的高く設定され、労働者は企業との契約保障を受け、企業による労働者の解雇は難しくなった。
 また労働戦線によって社会保障プログラムが開始され、労働者のための余暇活動も開始された。会社の食堂の充実、仕事の合間の休み時間や定時労働も確立された。だからドイツの労働者たちは労働戦線に満足し、労働戦線を歓迎したのである。
労働戦線のメンバーになるのは任意とされたが、ドイツの商業、工業などの全ての分野において労働戦線の一員でなければ仕事を得ることは難しかった。メンバーは会費を払わなければならなかったので、ドイツ労働戦線には労働者の払い込んだ会費が集まり、結果的に莫大な資金を蓄積することができた。
 労働戦線の下部組織として歓喜力行団(Kraft durch Freude=喜びを通じて力を)、職場環境の改善団体(労働の美)、失業中の青年をまとめアウトバーン建設など公共事業に労働者を派遣する国家労働奉仕団などがあった。
 歓喜力行団は、リクリエーションの喜びを通じて労働力をより高めることが目的で、スポーツ、生涯学習、夕べの催しから、音楽コンサートや日帰り旅行、リゾート地やクルーズ船での保養などを次々に企画し、労働者から大歓迎された。つまり、それまでのドイツの階級制度の下では労働者では体験不可能だったプチブルジョワ的なレジャーを普及させ、旧社会の階級対立を解消することが目的だったと思われる。
 したがって、歓喜力行団が作った2万5000トンの専用客船は地中海やノルウェイのフィヨルドにクルーズする豪華な大型客船で、当時のドイツの労働者にとっては夢のような豪華なツアーができたのである。このようなクルーズ用の豪華客船は13隻も作られた。

 こうした歓喜力行団のコンセプトのもとで、勤労者のための乗用車、KdFワーゲンが企画されたのだ。この企画は1933年、ドイツ首相に就任したヒトラーが、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーンの大規模建設と国民車構想(フォルクスワーゲン)の計画、自動車税の撤廃を打ち上げたところに始まるとされる。
 当時、乗用車はまだ労働者階級には手が届かない存在であったが、ヒトラーは歓喜力行団のコンセプトに従い、労働者の家族が長距離ドライブが楽しめるクルマを求めたのだ。
 34年にドイツ自動車産業連盟がこの国民車構想の設計・試作をフェルディナント・ポルシェの設計事務所に発注し、試作車のテストを経て1938年に正式に承認され、「歓喜力行団のクルマ=KdFワーゲン」と名付けられ量産が決定された。これがフォルクスワーゲン・タイプ1の長い物語の始まりである。
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↑KdFワーゲン・プロトタイプ(V2)
 ドイツ自動車産業連盟はKdFワーゲンの製造に非協力の姿勢であったため、既存の自動車メーカーでの生産は不可能となり、国策会社として37年にフォルクスワーゲン準備会社が創立された。
 38年にはフォルクスワーゲン製造会社と名称変更。38年にニーダーザクセン州に新都市「歓喜力行団の車を生産する街」(Stadt des KdF-Wagens)が建設され、大規模な生産工場や労働者住宅が建てられた。(この街は戦後ウォルフスブルグと改称される)
 歓喜力行団はKdFワーゲンの生産決定を受け、「歓喜力行団のクルマ」を購入するための特別貯蓄制度を設けた。これは労働者大衆がクルマを購入するための積立制度で、「自家用車に乗りたいなら、毎週5マルクを貯めよう」のスローガンが掲げられ、33万6000人がこれに応じて積立金の支払を行った。つまりKdFワーゲンは立ち上がりから33万台ものクルマの生産が見込まれていたのである。
 積立を終えた労働者には順番にKdFワーゲンが引き渡されることになっていたが、第2次世界大戦が始まり、実際に労働者がKdFワーゲンを受け取ることはできなかった。
 ただし、第2次世界大戦後、フォルクスワーゲンの製造が開始されると、戦前の契約は履行されている。

フェリー・ポルシェ生誕100周年(2)

 ポルシェ社はこの時点で、きわめて小規模のスポーツカーメーカーであったに過ぎないが、フェリー・ポルシェは、1950年にいち早く海外販売に着手した。アメリカに輸出すると、たちまちアメリカ市場のスポーツカーファンに受け入れられ、とくにハリウッドのスターたちに愛用されさらに評判を高めた。ポルシェという名前はアメリカでも知られていたのだ。フェリーもアメリカ人が好む356スピードスターを作るなどすばやい対応を見せ、55年の段階では年産台数の半分はアメリカで販売されるに至った。
 その一方で、フェリーは一般的な宣伝を行うのではなく、モータースポーツに取り組んだ。これがブランド力を高める最良の方法と信じていたからだ。
 また、もうひとつ、フェリーはVWビートルベースの356から、よりオリジナルなスポーツカーを開発することを構想していた。

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 60年代に入り、フェリーの長男、フェルディナント・アレキサンダーはすでにデザイン・エンジニアとして自社で働いていたので、フェルディナント・アレキサンダーがデザインをリードしながら、356の後継モデルとなる901(後に911と改称)を開発した。
 1963年のフランクフルトモーターショーで、ポルシェ社は6気筒エンジンを搭載した911を発表し、圧倒的な評価を得た。フェリーは、911に対して「これで何の問題もなく自分のゴルフバッグを積むことができる」と満足した。
 ポルシェ社は、ボディメーカーのロイター社を買収し、1000人の社員を得て911の生産を開始した。これはポルシェ社にとってまさに大きな飛躍となった。
 911は、この後長い期間にわたり大きな成功をもたらした革新的なコンセプトのスポーツカーとなり、その後も耐えざる改良が加えられた。
 フェリーは、「911を振り返って考えると、最初はそれほど911に確信を持てなかったが、
今日までの驚くべきロングライフになったことは、私のコンセプトが正しかったことを誇りに思う」と後に語っている。
 
  フェリーはリスキーなプロジェクトにも果敢に挑戦した。その好例がVWポルシェ914の開発である。69年に発売されたミッドシップ・スポーツカー914はVWとのジョイントベンチャーであった。高価なポルシェのスポーツカーとは一線を画す914は成功を納め、12万台を販売し、70年代のニッチなスポーツカーとして大いに評価された。
 フェリーは60歳の誕生日を迎えたとき、従業員からスペシャル914をプレゼントされた。このスペシャルカーは908レーシングカー用の3.0L、8気筒エンジンを260psにデチューンして搭載していたのだ。
 フェリーは大いに喜び、この914/8で1万㎞走行したという。
 これ以後、フェリーは誕生日に特別なポルシェ・スポーツカーをプレゼントされるのが慣わしとなった。ある時、ジャーナリストがフェリーに自社のスポーツカーを買ったことはあるのかと尋ねたのに対し、フェリーは「いや。来年の誕生日を待っていればいいんだ」と応えた。
 フェリーは、自社の技術課題に関与しただけではなく社会や従業員の生活にも気を配り、1956年にはポルシェ基金をベースにした企業老齢年金のスキームも導入している。また60年には、時給労働だったブルーカラーを月給制に変更し、さらにクリスマス・ボーナスや休暇手当てなど、当時は法的な義務はなかったにもかかわらず自動車産業の中で率先して待遇工場に努めたのであった。
 もうひとつ、フェリーは大きな決断を行った。71年にポルシェ社ではポルシェ家、ピエヒ家の人間は自社の経営には関与しないことを決め72年8月から実施された。この結果、ポルシェ家の人間は経営メンバーとは別の持ち株会社の監査役会に編入された。フェリーが90年まで監査役会の会長を努め、その後は名誉会長となっている。
 なおこの結果、ポルシェの実験部長を務めていたフェルディナント・ピエヒはアウディ社に移籍し、フェルディナント・アレキサンダーはポルシェ社とは別に独自のポルシェデザイン社を興した。
 フェリーは、1996年にポルシェ・ボクスターが発売されるのを見届け、1998年3月に死去した。この年は最後の空冷エンジンが搭載された911が発売された年であった。
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Author:TASG
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