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フェリー・ポルシェ生誕100周年(1)

 今年はアウディが創立100周年を迎えた。1909年、創始者のアウグスト・ホルヒが、ザクセン州のツヴィッカウで、アウグスト・ホルヒ自動車製造を設立してからちょうど100年というわけである。ホルヒは、実はそれ以前にも乗用車を製作しており、一時は出資者を得てツヴィッカウで「ホルヒ社」を設立した。しかし出資者と対立して追放され、彼自身でアウグスト・ホルヒ自動車製造会社を作ったわけだ。
 ところが追放されたホルヒ社と同様の名称であったために、クレームが付き、けっきょく翌年に「アウディ自動車製造」と名称を変更した。これが現在のアウディのルーツとなっているのだ。
 もっとも、その後はアウディは、旧来のホルヒとともにアウトウニオンとして合併し、民族資本の自動車メーカーとして巨大化し、市場シェアではオペルと争い、技術力ではダイムラーベンツ社と争っている。

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 そしてもうひとつ、今年はポルシェ社が戦後のスタートを切る原動力になったフェリー・ポルシェの生誕100周年でもあるのだ。
 フェリー・ポルシェは、1909年9月19日にフェルディナント・ポルシェの長男として、オーストリアのウィナーノイシュタットで誕生した。ちなみにその時には、フェルディナント・ポルシェはアウストロ・ダイムラー社の主任技師であり、自ら設計したレーシングカーでクラス優勝をした日であったという。
 フェリー・ポルシェの正式の名前はフェルディナント・アントン・エルネストだが、看護婦が「フェリー」と呼び、この呼び名が定着した。またポルシェ博士には5年後にフェリーの妹のルイーズが生まれている。ルイーズは後に弁護士のピエヒと結婚し、ポルシェ一族にはピエヒも加えられることになる。
 フェリーは、父親のクルマの中で育ったも同然で、いつも父親がクルマやレースについて語るのを聞いていたという。10歳の頃には父親の指導でクルマを組み立てた。
 そして10歳のクリスマスには、父親が特製した6psの空冷2気筒エンジンを搭載し60㎞/h のスピードが出る2座席カーをプレゼントされ、その後フェリーはこれを乗り回した。このクルマは家族の間では「山羊号」と呼ばれたらしい。
 山羊号にはナンバープレートもなく、もちろん10歳の子供が公道を運転するなど論外だったが、警察官はフェルディナント・ポルシェの子供だと知っており、なんのとがめもなかったそうだ。
 12歳になったフェリー・ポルシェは、早くも工場内サーキットで、アウストロ・ダイムラー製のレーシングカー「サーシャ」を運転した。サーシャは、タルガフローリオで優勝したレーシングカーで、45ps、140㎞/hという実力を持っていた。
 フェルディナント・ポルシェは、1923年にアウストロ・ダイムラー社を離れ、ドイツ・シュツッツガルトのダイムラー社の技術担当役員となった。
 フェリー・ポルシェは同市の中学校に入学し、親友、アルベルト・プライジングに出会う。プライジングは後にポルシェ社の経営の顔となった。
 プライジングはフェリーのことを「長髪で、誰も見たこともないようなニッカーボッカーをはいた洒落たスタイルをしていた。それから、クラスの皆がそのスタイルをまねした」と語っている。
 1923年、シュツッツガルトにフェルディナント・ポルシェは有名建築家に依頼した邸宅を建造し、ここがポルシェ家の拠点となる。フェリーは16歳で正式の自動車免許を取り、その後はあらゆるダイムラー社のプロトタイプ車のステアリングを握ったし、長距離テストドライブにも同行している。
 18歳の時には自ら購入したBMW500ccのオートバイに夢中になった。また同年に、フェリーはシュツッツガルト生まれのドロテア・レイツと知り合い、26歳の時に結婚することになる。なお、フェリーポルシェにはこの頃弟たちが生まれた。
 弟は、フェルディナント・アレキサンダー、ゲルハルト、ハンスペーター、ウルフガングの4人だ。
 フェリーはその後、ボッシュ社で研修を受けたが、1929年に父親がオーストリアのシュタイヤー社のチーフエンジニアとして就職したためウイーンに移った。フェリーはウイーンの学校で工学を学ぶ。
 だがフェルディナント・ポルシェは翌年にはシュタイヤー社を辞職し、自らの設計事務所を開き、フェリーもここで働くことになった。
 1931年にシュツッツガルトで「ポルシェ・エンジン&自動車製造&コンサルト事務所」を登記したのだ。ポルシェ博士と12人の自動車工学スペシャリストたちは、まずヴァンダラー社のために中型車を設計した。次にホルヒ社のためにスイングアクスルを、続いてフェノーメン社のためにトラック用の空冷星型5気筒エンジンを設計した。
 1931年夏にはトーションバー・サスペンションの特許を取得してる。
 フェリー・ポルシェは、ここでは試作とテスト部門を担当した。ここでフェリーは優秀なエンジニアであるワルター・ボクザンから理論や数値計算を学んだ。フェリーは21歳の頃にはヴァンダラーのステアリングの改良などの仕事を受け持つようになる。彼が熟成したステアリング機構は、その後はアウトウニオンのレーシングカーやフォルクスワーゲンにも採用されることになったのだ。
 
 1933年、ポルシェ事務所はアウトウニオンの16気筒レーシングカーの開発を受注した。
16気筒エンジンは同年末にはテストベンチにかけられた。ここではクランクシャフトやエンジンブロックに多くの問題が発生したがフェリーが多くを解決した。
 34年早々にはレーシングカーの走行テストが開始された。このテスト走行では、フェルディナント・ポルシェは自分の息子のドライバーとしての才能に驚き、フェリーもレースに出場することを望んだが、しかしポルシェ博士は、危険すぎると考え、これ以後はフェリーにレーシングカーの運転をさせることはなかった。
 このためフェリーはレースを諦め、以後はヴァンダラーのクルマでラリーに出場し、当時の有名ドライバーと同等の実力を見せたという。
 1934年1月からは、有名なフォルクスワーゲンの試作が開始された。ローコスト、高性能な人々のためのクルマというテーマで開発が開始された。政治的な理由でドイツ自動車工業会からの委託という形でポルシェ事務所はプロトタイプ製作の契約を6月に結んだ。
 プロジェクトは販売価格は1000ライヒスマルク以内、試作車完成まで10ヶ月という条件付きであった。
 フェリー・ポルシェに言わせれば、アウトウニオン・レーシングカーの開発に比べてればはるかに容易な仕事だったという。参照=タトラとハンス・ルドヴィンカ
 ポルシェ事務所は販売価格を990マルクとし、ロッキード社に特許料を払う油圧ブレーキは除外した。ホイールベースは大人4名が快適なスペースとなるように決め、トレッドは狭い村落の道路でも走れるように極力狭くした。ただし、実際のところポルシェ事務所に与えられた開発費の月額2万ライヒスマルクでは不足気味だった。
 最初の実験車の3台はポルシェ家のガレージで製作された。
 テストカー1号(V1)は35年7月に、コンバーチブルのV2は12月に完成した。そして36年2月のベルリン・モーターショーで、この2台のフォルクスワーゲン試作車は公表された。 V3は36年秋に完成し、この試作車は走行テストを繰り返した。フェリー・ポルシェは年末までに5万㎞のテスト走行を行い、3台の試作車の改良を行ったという。
 こうしたテストにはドイツ自動車工業会のスタッフの監督の下で行われ、彼らは100ページもの報告書を送った。その報告は、試作車の出来具合を大いに評価したものだった。
 VWはもともとは既存の自動車メーカーで製作されるはずだったが、ドイツ自動車工業会はこれを渋り、けっきょく1936年2月に、新たに会社を設立することが政府で決定された。
 1937年5月にドイツ国民車準備会社が設立され、ポルシェ博士は技術担当取締役に就任。なお本格的な大量産技術を習得するために、ポルシェ父子は同年にアメリカのデトロイトに視察に出かけている。
 ポルシェ事務所は生産技術や実験・試作のために、1938年にツッヘンハウゼンに新工場を開設した。そして38年にVWビートル・ゼロ・プロダクションシリーズがツッヘンハウゼンで製作された。フェリー・ポルシェはプラットフォームにシートだけを装備したベアシャシーカーでテストを繰り返したという。
 その一方で、当時ポルシェ父子自分たちの夢であるポルシェブランドの小型のレーシングカー/スポーツカーの企画を考えていた。ちょうどVWを開発していた時期のため、VW39コンバーチブルをベースに過給器付きエンジンを想定していたが、やがて戦争が始まり、ポルシェ事務所は軍用車の開発に着手せざるをえなくなる。
 当時のスポーツカー構想は、コードネームは114と名付けられた。ヒントはアウトウニオン・レーシングカーだった。DOHC・半球形燃焼室を持つ1.5L エンジンのミッドシップカーで、トランスミッションはリヤアクスルより後方に置かれ、乗員は3名とした。
 その一方で、VW工場ではVW60をベースとしたレーシングカーも製作された。これはベルリン-ローマ・レースに出場するためのレースカーで、最高速は140㎞/hを達成した。もうひとつ、タイプ64、またはタイプ60K10と呼ばれるスポーツクーペも1939年春に3台が製作された。こちらはドイツ国内のアウトバーンを1500㎞走るという長距離レース用であり、ボディはオールアルミの流線形。VW水平対向4気筒エンジンは33psにアップしていた。
 
 1944年春にシュツッツガルトは空襲を受け、ポルシェ事務所と工場はオーストリアのグミュントに疎開した。しかし45年5月にドイツは敗戦し、連合軍の進駐を受ける。ツッフェンハウゼンはフランス軍がまず使用し、同年8月からはアメリカ軍がトラックの修理場として使用した。一方、グミュントのポルシェ工場は民生用のトラックの修理などが主な業務となった。
 45年11月にはフェルディナント・ポルシェ、アントン・ピエヒ、フェリー・ポルシェはフランス軍の秘密警察に逮捕された。フェリーは翌年3月に釈放されたが、フェルディナント・ポルシェはフランスに送られ拘留が続けられた。
 このため、フェリー・ポルシェと残されたエンジニアたちはグミュントの工場でトラックの部品やケーブルウインチを作ったりした。しかし46年になるとイタリア企業のチシタリアの依頼により360グランプリ・レーシングカーと、ミッドシップの370 スポーツカーを製作した。360は1.5L・12気筒+スーパチャージャーエンジンを搭載し、オンデマンド4WD駆動を採用していた。
 なおフェルディナント・ポルシェは多額の保釈金と引き換えに、1947年8月に釈放された。グミュントに戻ったポルシェ博士は、不在の間に描かれた360の図面を見て満足した。
 
 フェリー・ポルシェは、ふと考えた。チシタリア車の小型スポーツカーはフィアットのエンジンを使用していたが、われわれもVWのエンジンを使用してスポーツカーを作ることができるのではないか。そして、それはすでにベルリン-ローマ・レースカーで実績があるではないかと。
 1947年春にフェリー・ポルシェはVWユニットを使用したVWスポーツ(製造ネーム356)の開発に着手した。そして48年2月にロードスターボディを持つ実験車が完成。ボディはアルミの叩き出しである。エンジン、サスペンション、ステアリング、ギヤボックスなどすべてのコンポーネンツはVW製であった。車重は585kg、最高速は135㎞/hであった。
 同年6月、356-001がオーストリア・カリンテア州政府の認証を取得。
 356にスイスの出資者が目を付け、スイスで販売することにしたが問題はVWコンポーネンツの入手にあった。
 フェリー・ポルシェは1948年9月に、VW社の社長であったノルトホフと会談し、VWコンポーネンツの供給と、VWビートル製造の1台ごとにポルシェ社にライセンス料を支払うことで合意したのだ。これによってポルシェ社の財務は安定し、部品も確保できることになった。
 356の販売が好調であったため、部品供給が不便で、工場も小規模なグミュントでは制約が多く、フェリー・ポルシェは1949年に、ドイツ・シュツッツガルトに戻ることを決断する。当時、ツッフェンハウゼンはまだアメリカ軍が使用していたため、フェリー・ポルシェは、ポルシェ家に事務所とテスト部門を置き、ロイター社と契約して同社でボディを製作することにした。ロイター社製356からはスチールボディに変更された。シュツッツガルトで初めて356が製造されたのは50年3月からである。356はベストセラーになり、ロイター社だけでは製造が対応できず、他のコーチビルダーでも製造を開始した。
 
 
 
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ロングドレーン・オイル

 VW・AUDIグループの指定オイルは、VW・AUDI規格の502規格、503規格、504規格を使うように推奨されている。最新の規格が504で、いわゆるロングドレーン・オイルである。一方、502、503規格は従来型の固定インターバルでオイル交換を行うタイプで、推奨は1年間、または1万5000㎞ごとの交換サイクルとされている。502(5W-40)はNAエンジン用、503(0W-40)はターボエンジン用という区別がされている。
 これでも、一般的な常識よりもも長めの交換サイクルとなっているのに注目したい。

 一方、新規格の504は、ヨーロッパで一般化しつつあるロングドレーン・タイプで、交換サイクルは2年、または3万㎞なのである。しかもこの504は、NA、ターボ、ディーゼル・エンジンのすべてに適用されるのだ。流れとしては、今後は504に一本化されるのだろうと思われる。
 504規格(5W-30)の特徴は、省燃費、対触媒性能の向上、高温耐久性の向上、経時安定性といったところだ。つまりサラサラのオイルで攪拌・摩擦抵抗がきわめて低く、しかも高温耐久、径時安定性が高いというのだ。
 内容的には、ポリアルファオレン系100%合成オイルに、添加剤を加え作られたオイルで、
オイルのグレードはAPI(アメリカ石油協会)、ACEA(ヨーロッパ自動車工業会)が定めた規格の中で最上級SLクラスのものに相当する。
 しかし、VW・AUDIは、APIやACEAよりさらに厳しい社内規格が存在するため、その他のAPI/ACEAの最上級規格オイル(SL規格)と504規格オイルは同じレベルのオイルではないのだ。
 VW・AUDI規格では、AP1/ACEAの規格の1.5倍以上の高温せん断粘度が要求されるなど、まったく別規格のオイルといってよい。
 これは単に長期使用のためだけではなく、エンジンの常用水温が現在では100から110度Cと高くなっており、当然常用油温が高い、その一方で設定油圧は低いといったエンジンの設計要件を取り入れた規格になっているものと思われる。
 このため、実際にはVW・AUDIとカストロール社が共同開発を行い、純正指定の専用オイルとされ、いわゆるアフターマーケットでは販売されていない。唯一、VW・AUDIの販売店で購入できるのだ。
 なお、こうした市販のオイル規格を上回る厳格な社内規格は、BMW、メルセデスも同様と思われる。BMWの純正指定オイルもカストロール製であり、BMW販売店でのみ購入でき、メルセデスはフックス社製である。
 こうした新規格のロングドレーン・オイルは、長期使用という前提に加え、ドイツ車はエンジンのクリアランスが大きめであるため、エンジンオイルの消費が大きめという前提にも合わせている。アウトバーン・コンディションでは3000㎞で1Lを消費することも珍しくないという。このため500ccていどずつ注ぎ足すということも前提になっている。

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 画像に示すように、3000㎞走行ごとに補充することでオイル性能は、新品時とほとんど変化しないという。
 こうした使用環境になっているため、現在のクルマはオイル・レベルゲージは姿を消し、
車内のモニター画面でチェックするようになっている。
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