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ああ、自動車評論家&ジャーナリスト

 もともと評論家やジャーナリストと言う職業には、明確な資格や基準はない。ただ、一般的に評論家はその分野の専門家であり研究者であることが多く、ジャーナリストは欧米では業績、実績のある文筆業であることを前提に、ジャナリストとして認定されることが多く、そのためにほとんどは放送や新聞、雑誌などのメディアに在籍し教育された経歴を持っている。
 しかしそういう点で日本はあいまいで、どの分野の評論家、ジャーナリストも自称するだけでじゅうぶんにこと足りる。
 ということは自動車関係の評論家、ジャーナリストも然り、である。
 もともと自動車に関しては業界情報を別にすれば、それ以外はマニアック、趣味的なジャンルだし、メディアとしては自動車雑誌しかない環境のため、評論家やジャーナリストという概念は、他の分野のそれよりよりいっそうあいまいといえる。
 その一方で、自動車産業という大きな産業全体の動向を専門的に分析するようなアナリストはきわめて少ないのが実情だ。
 
 評論家は通常は研究家であり、ジャーナリストはメディアで基本要素を習得した執筆者であるが、自動車の分野に限っては自動車マニアに過ぎないことが多い。
 また自動車関係の評論家、ジャーナリストの主な仕事は新型車の試乗記を自動車雑誌やWEBのために書くことであるように見える。しかし、現在ではこれは何か違う気がする。
 試乗記には歴史的な経緯があり、例えば第2次世界大戦後の戦後と呼ばれる時代は、自動車など一般の市民から身近な存在ではなく、夢のまた夢であり、どんなに自動車が好きでも乗ることは不可能だた。ましてこの時代は国産車は少数で、最新のクルマはほとんどが輸入車だった。こんな時代であったから、研究者は輸入車に関する知識は外国の自動車雑誌から得ており、日本に上陸した希少な輸入車に乗って評論、記述できるのは恵まれた環境にあるクルマ好きの人物しか不可能だった。
 当時の乗って書く代表格が小林彰太郎氏や杉江博愛氏である。また海外の自動車に関する研究家では、高岸清氏、五十嵐平達氏らがいた。それ以外に自動車技術を研究していたのは大学の研究者、自動車メーカーの技術者である。
 この当時の試乗記は、自動車好きの庶民にとっては夢物語であった。
 1960~70年代に入ると国産車が次々に登場し、マイカーブームの兆しが見え始めるようになった。そのため一般市民は、自分ではまだマイカーは購入できないものの、少し身近になってきたクルマを評論家の試乗記で擬似試乗体験する思いであり、相当に感情移入して読んでいたはずである。
 もちろんこの時代になると次々に自動車評論家も登場するようになった。しかしその評論家は要するにクルマのマニアの寄稿家であり、当時の人では経験のできない各種のクルマを運転した体験を持つ人だったのだ。
 
 こういう事情があるので、評論家の試乗記はそのクルマの技術的な評価やクルマそのものの総合的な評価というより印象記であり、そのクルマの走る様子を説明するという内容だった。もちろん自動車雑誌の読者もそれを望んでいたのだ。
 しかし時代は流れて、現在のように驚くべき種類のクルマが販売されるようになっても、自動車雑誌の試乗記は1960~70年代の内容とほとんど変化がない(その一方で現代の通例として1台のクルマに対応するテキスト量は大幅に減少しているのが現実である)。
 これは評論と言えるのか?
 国産自動車メーカーが次々に新型車を発売し、ラインアップが増大してくると、かつては雑誌や新聞社は新型車を借り出して試乗していたが、やがて自動車メーカー主催の新型車試乗会が開催されるようになり、また新型車に関する技術情報もメーカー側から提供されるという新しい形が定着した。それまでは新型車に関するさまざまな情報は雑誌ごと、評論家ごとに個別に取材する必要があったが、これ以後は労せずしてメーカー側から情報が提供されるようになり、したがって書く側はその受け売りになる。
 また試乗会形式は、新型車を借り出す手間が省けるようになったが、その一方で走行場所や走行時間が限定された。1980年代以降は静岡県・箱根、神奈川県・大磯といった地点で試乗会が開催されることが多くなり、試乗時間も40~50分間に限られた。自動車雑誌、スポーツ新聞といったメディアの数が多くなり、試乗を希望する評論家やジャーナリストの数が増大したのがその原因だろう。
 試乗会では、会場でOHPを使用した新型車のプレゼンテーションが行われた後に、試乗、エンジニアとの懇談を行うといったパターンが一般化している。会場では手際よく新型車を実感できるようにシステム化されたといえるが、やっぱり一夜漬けでしかないと思う。
 
 その一方でマイカー元年の時代とは異なり、現在の一般的な自動車マニアは何台もマイカーを所有した経験を持ち、その日常的な運転経験の積み重ねから大なり小なり見識を備えるようになっているので、1979年代スタイルの、しかも一夜漬け的な刷り込み情報をもとにした試乗記はほとんど興味を引く内容にはなりえないのである。
 いうまでもなく現在のようにクルマは特別な存在ではなく、多数の種類が市場にあふれている状態では、試乗記という感想や説明ではその車の存在意義を語ることは難しい。そこには明確で、客観性のある価値観が改めて問われなければならないと思う。
 そのクルマは何者であるか、なぜ生まれ来たか、そのクルマはどうあるべきか、などといった評論家やジャーナリストなりの評論の価値観、つまり世界観が必要なのだ。
 しかし、マニア派生の人たちには、そうした客観性のある評論は難しい。クルマに関する情報はメーカー側から一方通行的に流され、それを受け止めるのが精一杯といった状態になっているのだ。一方通行の情報の聞き書きの一方で自動車ジャーナリスト団体が勉強会と称して自動車関連メーカーに基礎知識を教えを請うといった珍妙な風景も見ることができる。
 このような現状のため評論の立脚点や評価がぶれたり、マニアとしての思い込みや好き嫌いによって視点や評価が左右されている。また、プレミアムブランドのドイツ車などは特に根拠を持たない絶対賛美主義を生み出している。
 確かに、ポルシェやメルセデスの個々の欠点を指摘するには、客観性だけでなく相当の識別眼が必要なのだが。
 また、もともと試乗記からスタートしていることもあって、走り(特に操縦性)だけが重視され、ステアリングの正確さや安定性、乗り心地などは見逃されやすく、そのクルマの静的評価もほとんど行われないという偏った内容になりがちである。
 また、第3世代の、つまり1990年以降に登場した自動車評論家は資質的にも相当にプアな傾向にある。自動車雑誌のアルバイト(それもデスクワークではなく試乗車の運搬など)出身、クルマ関連の企画運営会社のアルバイト出身、はてはモデル出身やレース出身で口述筆記が必要・・・などなど特に鍛錬期間もなしに評論家やジャーナリストに転身できてしまうのだ。
 その一方でアルバイト出身で今売れっ子の39歳の某氏がいまだに若手の旗頭であり、その後の世代との断絶もはなはだしいのが実情で老齢化が進んでいる。また、カーオブザイヤーの選考委員ともなれば、自動車メーカーのエンジニアに先生と呼ばれるようになり、一段と自己錯覚を生じさせている。もっともカーオブザイヤーの選考委員の70%はクルマにはあまり縁がない人ではあるのだが。
 近年は自動車の販売以上に、自動車雑誌の売れ行き不振が進んでいる。もちろんその背景にはWEBの時代を迎え、PtoPの情報が重視されるようになっていることも上げられるが、1970年スタイルの雑誌メディアの存在が問われていることは間違いない。
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ダカールラリーで優勝したVWレース・トァレグ2

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 2009年ダカールラリー(ただし開催場所はアルゼンチン/チリ)で、ついにVWが優勝を果たした。マシンはレース・トァレグ2だ。
 三菱は新開発のレーシングランサー(V6・4ターボ・ディーゼル)を4台送り出したが、今回はメカトラブルが生じたりで、従来の経験を生かすことができなかったが、VWは入念な準備が奏功して、優勝を遂げた。
 VWも三菱も、ワークスチームとして「スーパープロダクション」(事実上のプロトタイプ・ラリーカー)にエントリーしているため、マシンの作りはよく似ている。
 スペースフレームにカーボン・ボディを架装したもので、エンジンは三菱が3.0L/V6/4ターボ/ディーゼル)、VWは5気筒の2.5L/2ターボ/ディーゼルという違いがある。従って規定重量は三菱が1900kg、VWは1787.5kgとなっている。
 
 レース・トァレグ2は、VWモータースポーツで開発され、ボディデザインは、本社デザインチームが担当し、同時に風洞で空力開発を行っている。ボディ・デザインでは機能性、視界なども徹底的にチェックされ、例えばカーボン製ボンネット形状もドライバーの視界向上に配慮されているという。
 ボディ床下は完全なフラットパネルでカバーされており、空力的な性能を高めている。
 VWモータースポーツの主任技師、A.ロートナーは、「クロスカントリーラリー車で最も難しい点は、極端に異なる走行コンディションに対応しなければならないことだ」と語っている。気温は0度~40度C、路面は、舗装路、石混じり路、ダート、砂漠、水中走行。そしてメカニックは泥まみれのクルマを完璧に整備する必要がある。F1グランプリとはまるで正反対の条件であり、走行距離もF1の1年間の走行距離、約9000㎞を、たった1回のダカールラリーで走るのだ。
 
 インテリアは、徹底的な機能性と快適性の追及が行われた。ドライバーは運転に必要な情報のみを視認しやすくし、ナビゲーターはトリップマスターとGPS装置をツイン装備。
 ダッシュボード中央には、オンボード油圧ジャッのスイッチを配置。また、都市部や村落を通過するときのためのスピードリミッタースイッチも備えている。
 キャビンはエアコンも装備している。

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  ボディパネル部はすべてカーボン製で、重量はわずかに50kg。またボディデザインは2005年にVWデザインスタジオで決定され、その後は風洞実験を行いながら空力特性を向上させている。ボディの骨格は、航空機用のスチールパイプを採用した、きわめてねじり剛性の高いスペースフレーム構造で、サスペンションもフレームにマウントされている。
 サスペンションは前後ともダブルウイッシュボーン式で、特にリヤのジオメトリーが改良され、ロール量を低減し、ハンドリングを向上。
 なおサスペンションはザックス製のツインダンパー、ツインコイルで、ダンパーのストロークは250㎜とされている。ダンパーはザックス・モータースポーツとの共同開発によりジャンプ時の安定性が改善されているという。
 
 エンジンは直列5気筒ツインステージ・ターボ・ディーゼルだ。規則により38㎜径のエア吸入口制限があるため、パワーは280PSだが600Nm以上の大トルクを、きわめて低い回転から発生できる特性を持っている。エンジン設計主任技師のD.ヴィッケルハウズは「最高のトルク特性を持ち、砂地でも走るのが容易だ」と語っている。また燃費のよさも特徴で、長距離レグでもガソリンエンジンに比べ燃料搭載量が少なく、重量では200kgも軽減できると言う。
 吸気口制限のため、エンジンパワーは制限されるが、より優れた低速トルク特性とより大きなトルクを両立させるために2ステージターボ方式を採用しており、第1段ターボはきわめて小型にしているようだ。
 なお駆動方式はフルタイム4WDであることはもちろんだが、3個のデファレンシャルは機械式、LSDはすべてビスカスカップリングを使用している。
 
 長距離を走破するクロスカントリーラリーでは信頼性や整備性のよさも重要で入念に検討され実験を繰り返して実現している。またタイヤは専用開発されたBFグッドリッジ(ミシュラン)製で、事前のモロッコでのテストを経て砂地でのトラクションを一段と向上させていると言う。

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 また、整備やサービス体制なども徹底的に検証され、迅速で完璧なサービスを行うことができるように準備された。その一方でドライバーやナビゲーターの体力トレーニングは、アンデス山脈を想定して3000m級のアルプスで高地トレーニングキャンプを開設し、医師、トレーナーなどのプログラムの下でじゅうぶんな時間をかけて体力アップや高地への適合を行ったというからすごい。

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■レース・トァレグ2主要諸元
全長:4171㎜ 
全幅:1996㎜
全高:1762㎜
ホイールベース:2820㎜
トレッド:1750㎜(F&R)
車重:1787.5kg(規定重量)

ボディ&フレーム:スチール製スペースフレーム+カーボン複合材ボディ

エンジン形式:直列5気筒ディーゼル+2段作動ツインターボ
インタークーラー:フロントに縦置き
排気量:2500cc
最高出力:280PS
最大トルク:600Nm以上
エアリストリクター:38㎜φ
エンジン制御:ボッシュ

トランスミッション:レース用縦置き5速シーケンシャル MT
デファレンシャル:機械式デファレンシャル+ビスカスLSD×3
クラッチ:ザックス製3枚式セラミック・クラッチ

サスペンション:ダブルウイッシュボーン(F&R)、ザックス製ツインダンパー

ステアリング:パワーステア ラック&ぴニオン式

ブレーキ:320㎜φ(F&R) フロント6ピストン、リヤ4ピストン

ホイール:7.2×16

タイヤ:BFグッドリッチ(235/85-16)

0→100㎞/h加速:6.9秒
最高速:190㎞/h

ニュルブルクリンク物語

 ニュルブルクリンク・サーキットは、ドイツ北西部のアイフェル地方の古城、ニュルブルク城の周囲の自然の地形を生かした歴史的なサーキットである。しかし通常のレース用のサーキットと言うイメージはまったく異なり、山岳地域の中を巡る高速のワインディングロードといった感じである。

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↑ Google Earthより

 特に北コースは特異な存在で一体が森林であり丘陵地帯であり、ニュルブルク城を取り囲むようにコースがレイアウトされている。高低差は300m、コーナーの数は172もあり、しかもほとんどは3速ギヤ以上の高速コーナー。コーナーの多くは森に視界をさえぎられたブラインドコーナーとなっている。またコース幅が狭く、コース外側のエスケープゾーンもわずかで、コースアウトするとガードレールに衝突する。このため、普通のサーキットではスピンしてもなんら問題がないのに対し、ここではスピンするとクラッシュし車両が壊れてしまう可能性がきわめて高い危険性を孕んだコースなのだ。
 また路面は、一般的なサーキットのような専用の舗装(通常はサーキット専用舗装で、摩擦係数が高くタイヤがグリップしやすい)ではなく、一般の地方道と同じアスファルト舗装がほとんどであるため、他のサーキットより滑りやすく、また路面のうねり、舗装の荒れなどもある。また秋にはコースのあちこちに枯れ葉ガが舞い、山地であるため天候も変わりやすく、コースの一部で霧や雨ということも珍しくない。このようなコース状態のため、レースだけではなく、自動車メーカーの高速テストコースとしても有名である。このコースでテストを行うことでクルマのロードホールディング、安定性やコントロール性、エンジンパワー特性などを総合的に性能を熟成することができるとされている。
 まさに公道感覚のコースなのだ。
 高速カーブが連続していながらカーブの先が見通せず、しかもクルマのコントロールを失ったりスピンすれば、即大きなクラッシュ事故となるため、ステアリング握るドライバーの心理的な重圧はきわめて大きく、安全性が高い通常のサーキットを走るのとはまったく異なる。このように一般の公道を走るのと同等以上のプレッシャーの下で、クルマの走りを評価することにニュルブルクリンクのテストの意味があるのだ。
 したがって、ステアリングの正確さ、シャシーの安心感、コントロールのしやすさ、入力が大きな場合のサスペンションの動きの滑らかさや乗り心地のよさ、エンジンの冷却性や安定性、タイヤの安定性とグリップ力のバランスなどが試される。当然操縦性は、穏やかなアンダーステアであることが求められる。
 市販スポーツカーは、この北コースでどのくらいのラップタイムで走行できるかが、そのクルマの性能のひとつの指標になっている。もちろんラップタイムを記録するのはプロのテストドライバーである。ただ、誤解されているのは、単なるサーキットの速さとしてのラップタイムではなく、どれだけ安心してアクセルを踏めるか、ブラインドカーブをどのていど攻められるかといった、クルマの挙動がどれほど安定しているかという点での指標なのである。
 ちなみにドイツのニュルを知り尽くしたドライバーはニュル・マイスターと呼ばれる。男性はもちろん女性にもマイスターはいる。現に、ニュルブルクリンクでのドラインビングスクールの講師にも女性はいるのだ。こうしたマイスターは、個々のカーブの状況、小雨が降ったらどこが滑りやすいか、どこの縁石は攻めてよいか、などをすべて習熟している。
 したがって、彼らのニュルブルクリンクのラップタイムは速い。しかし、速いと言うことと、ニュルブルクリンクでkるまを評価することとはまた別問題であることはいうまでもないだろう。
 
  このニュルブルクリンクのコースはどのようにして生まれたのか?
 
 第1次世界大戦に敗れたドイツは、敗戦の傷跡が大きく、しかも戦勝国に巨額の賠償金を支払わなければならず、ハイパーインフレが進行し、深刻な不況に陥っていた。社会は不安定で、大量の失業者が生じていたため、これを救済するための公共事業として当時のワイマール共和国政府が巨大なサーキットの建設を決定した。
 なおこのアイフェル地方は当時はドイツ最貧地方であった。アイフェル山岳地域のアップダウンのある地形を生かしながら、しかもドイツの地方道路を再現するコース設計とされたのが最大の特徴で、1927年のオープン当初は全長が22.8kmの巨大な北コース(Nordschleife)と全長7.7kmの南コース(Sudschleife)の2つに分かれていた。コースはたびたび改修され、現在は北コースが20.8km、旧来の南コース以外に新南コースが4.5kmとなっている。新しい南コースは1984年に建設され、1985年のドイツ・グランプリからはこの南コースで開催されている。新南コースは現在的なサーキットで、コース幅やエスケープゾーンが広く、地形もフラットで、きわめて安全なコースであり、同じニュルブルクリンクでも北コースとはまったく様相が異なっている。

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↑建設中の風景。

 ドイツの地方道路を再現したコースと言う意味は、レースも公道レースの性格を持たせたということの他に、クルマのテストにも使用できることである。

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↑1927年のアイフェルGPで優勝したO.メルツ(メルセデスS)。当時はナビゲーターも同乗する2名乗車。左から3人目のスーツ、ソフト帽子姿はF.ポルシェ(当時はベンツのエンジニアとして在籍)

 なお、ニュルブルクリンクのコースはナチスドイツ登場以前に完成したが、その6年後にナチス政府が資金を提供してコースが若干改修されている。なおナチスは党の幹部が、ヒトラーを筆頭に自動車マニアが多く、ニュルブルクリンクのみならずアウトウニオン、グランプリレースなどを積極的に支援した。

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↑1931年のレースのポスター。右上の山頂にニュルブルク城が描かれている。

 1934年にニュルブルクリンクで開催されたアイフェル・グランプリではメルセデスベンツのグランプリカーは事前の車両検査で車両重量規定をわずか1kgオーバーしていたため、チームは、苦肉の策としてボディの純白の塗装を一晩かかって剥がし落とし、アルミむき出しのボディにゼッケンを貼り付けてレースに参戦したエピソードは有名だ。このアルミ地むき出しのグランプリカーでマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが優勝した。
 これがメルセデスベンツのシルバーアローの伝説の始まりとなった。

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↑1934年から採用された750kgフォーミュラGP。メルセデスGPカーを駆るハツッエンバッハ。

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↑当時のピット・ガレージ。メルセデス・チームの整備風景。

 1939年のアイフェル・レースではヘルマン・ラングが12気筒エンジンを搭載したシルバーアローで9分52秒の新記録を樹立し、1956年までこの記録は破られなかった。
 また戦前のニュルブルクリンクでのレース開催はこの1939年が最後となり、以後は戦争のために開催されなかった。

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↑アウトウニオンの主任設計者となったポルシェと、V16気筒エンジンをミッド搭載したPワーゲンの名ドライバー、ベルント・ローゼマイヤー。

 第2次世界大戦中には、ニュルブルクリンクの特別観覧席にあったホテルは臨時の住宅や病院として使用された。
 またコースは敗戦直前の1945年には戦車群の走行や砲爆撃により大きな被害を受けている。西方から進撃してくる連合軍に対するドイツ軍の抵抗拠点のひとつとされたからである。
 
 戦争によりコースは大きな被害を受けたにもかかわらず、戦後のニュルブルクリンクの復興は意外と早く、1947年にアイフェル・カップ・レースが開始されている。
 この当時の入場料は、ワイン、ソーセージ、パンの消費チケットを含み5ライヒであった。まだワインも食料も容易に入手できなかった時代のことである。

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↑再開時のオートバイレース(1947年)観客は詰め掛けた。

 4年後の1951年には、戦後初のドイツF1グランプリが開催され、ニュルブルクリンクは国際的に再認知された。
 1954年に開催されたヨーロッパ・グランプリでは観客は40万人以上という驚くべき数を記録している。

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↑1960年のツーリングカー1000㎞レース。コースにガードレールがない。

 1970年にはレースでの安全性を高めるためにコースは大幅に改修されることになった。1700万マルクの費用をかけ、コース幅を広げ、エスケープゾーンを拡大し、多くのガードレールを新設した。そして改修が終わった1971年からドイツ・グランプリが再開された。 しかしニュルブルクリンク北コースは依然として危険という指摘がグランプリ・ドライバーから行われた。レーシングカーの走行では、2ヶ所で1m近くジャンプすること、ブラインドコーナーの先で事故が起きた場合、後続のドライバーが回避できないこと、天候が変わりやすいといった点が危険とされた。
 その指摘の通り、1976年にフェラーリのステアリングを握っていたニキ・ラウダがレース中に大事故を起こして重傷を負い、それ以後は北コースがグランプリレースに使用されることはなくなり、自動車メーカー、タイヤメーカーのためのテストコースとして利用され、また一般市民の走行コースとなった。ただし例外的に1970年に開始されたツーリングカーによるニュルブルクリンク24時間レースは、その後も北コース、南コースを使用して開催され現在に至っている。

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↑1966年のドイツGP。ガードレールなしの狭いコースをF1が疾走した。なお、71年からはガードレールが設置され、76年のラウダの事故の時は、ガードレールに激突した。

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↑1970年。ニュルブルク城のふもとを走るポルシェ908(J.シファート)。

 F1グランプリ用として新しい南コースが1984年に建設され、1990年代には5000人の観客が収容できるメルセデスベンツの特別観覧席、さらに新しいVIP棟の建設、医療技術センターの建設、新しい道路の建設の他、室内娯楽場、アドベンチャーワールド施設などもオープンされている。さらに1999年には最先端の汚水処理設備が完成するなど、施設面は大幅に革新されている。
 また2000年にはコントロールラインの設備が一新され、1600m2の広さを持つデジタルメディアセンターも新設され、現在では世界最高峰のサーキット施設を備えている。
 また、レースだけではなく、ニュルブルクリンクでは、レクリエーション、オートキャンプ、自転車競技などスポーツ・イベント、ロック・フェスティバル、安全運転センターなど多様なイベントや活動が展開され、地域経済にも大きく貢献しているのも特徴になっている。
 一方で、レース時には20万人近い観客が集まるものの、周辺道路の渋滞はほとんど発生せず、また観客のほとんどはオートキャンプをしながらの観戦となっているのもニュルブルクリンクならではのことだ。
 近年では、近隣のベルギー、オランダ、フランスはもちろん、ロシアや東欧から、フェリーで海を渡ってイギリスからなど遠くの海外からクルマに乗ってニュルブルクリンクを訪れる観光客やレース観戦者が多いのも注目される。
 なお、レースの開催時以外は、自動車メーカーやタイヤメーカーが共同で占有するインダストリアルデーが設けられ、この時には各メーカーのテストカーが走行する。また、それ以外の一般開放日には、チケットを購入すると観光バス、オートバイ、レンタカー、自家用車で自由に走ることができる。ただし、一般のドライバーは連続して3周できる気力と体力のある人は稀である。
 ここでのレースに初めて参戦するためには、ニュルブルックリンク専用のライセンスを受ける必要があり、そのためには講習の受講と、コース試走が義務付けられている。したがってどんなベテラン・プロドライバーでも、ニュルブルクリンクに初めて参戦するためにはこの講習を受けるのだ。
 この講習では、特に危険な場所についての注意とが行われる。
 日本のメーカーでは、ヨコハマ・タイヤが最も早い時期、1970年代後半に開発テストを行った。その後、ブリヂストンがポルシェのタイヤ認証を受けるためにテストを実施。(ポルシェのタイヤ認証は、ニュルブルクリンクでのテスト結果が必須)自動車メーカーでは、ブリヂストンの開発エンジニアの進言を受け、日産がR32型スカイラインGT-Rの確認テストで、次いでホンダがNSXのシャシー開発で、またスバルは初代インプレッサWRXの確認テストにここを使用した。テストカーの整備などを行うために、自動車メーカーはサーキットの近郊にワークショップを設けている。
 日産やホンダの実験エンジニアは、ニュルブルクリンクに深い感銘を受け、日産は陸別試験場に、ホンダは鷹栖試験場の中に、ニュルブルクリンクのコースの一部を再現させている。なおトヨタは士別試験場の中にヨーロッパ路、アウトバーンを再現したコースを持つ他、東富士試験場の中にワインディングコースを持っているため、ニュルブルクリンクと同レベルのテストを行うことができると明言しているが、レクサスIS、LF-Aの開発はさすがにニュルブルクリンクを使用している。
 なお、ドイツの自動車メーカーはニュルブルクリンクだけでテストをしているわけではなく、自社のテストコース以外に、ホッケンハイム・サーキット、アウトバーン、アルプスの公道、ピレネー山脈の公道、フィンランドの山地公道などを多用している。
 
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↑観客はレースを見るために1週間近くオートキャンプをしながら滞在する。大樽入りのビール、ソーセージや肉は欠かせない。

混乱の時代を透視する(2)

 エンジン-エレクトリックのシステムは、つまりは内燃機関と電動モーターの組み合わせであり、ハイブリッド・システムである。もともと自動車黎明期には、内燃エンジンの性能が低く変速機やクラッチも未熟だったために、内燃機で発電しモーターで駆動するシステムが登場しており、ローナー・ポルシェもシリーズ・ハイブリッド方式であった。
 しかしその後は、内燃エンジンが高性能化したことなどにより、ハイブリッドカーは姿を消したが、ディーゼル機関車、アメリカの潜水艦、重機などではでディーゼルエンジンによる発電でモーターを駆動するシリーズ・ハイブリッド方式が定着している。今後のハイブリッドカーは、むしろシリーズ・ハイブリッドが主流になる気配がある。
 トヨタ・プリウスの登場以来、シリーズ・パラレル方式のハイブリッドが脚光を浴びるようになったが、モーター、電池に依存する領域が多くモーターの性能に限界があるため、小型車に特化したシステムといえる。ただ、シリーズ・パラレルの制御、無段変速機構、アトキンソンサイクルの専用エンジンの搭載など、ハイブリッド専用車としてのまとめ方は評価できよう。
 なおハイブリッド・システムは、エンジンのアイドルストップ、ブレーキ回生によりエネルギー効率を高め、燃費向上に寄与することができる。
 しかし、EV同様の電池のコストや寿命などの問題を内包していることは間違いない。プリウスはニッケル水素電池を搭載しているが、その価格は20万円ていどと見られる。プラグイン機能を追加するためには電池容量の増大をはかる必要があり、現在の価格設定ではより高性能だがさらに高価なリチウムイオン電池への転換は難しいと思われる。
 
 一方で、ディーゼル・エンジンもガソリン・ハイブリッドカーと同等レベルの燃費を実現できる実力を持っており、ディーゼル・ハイブリッドが実現すれば、燃費、CO2排出量ではガソリン・ハイブリッドを凌駕できることはいうまでもない。ただ、ディーゼル・エンジンは排ガスや排出粒子対策を行うために、エンジン・コストがきわめて高騰しているのが実情である。コストの高騰分は、燃費やCO2排出力の少なさでカバーできるのか、ガソリン・エンジンに対して競争力を維持できるかどうか。
 こうした問題以外に現在のディーゼル・エンジン車は、地域による片寄りがはなはだしく、日本やアメリカではディーゼルが大型トラック以外には少数であるため軽油は余剰状態にあり、ヨーロッパでは極端に乗用車のディーゼル・エンジン比率が高いために軽油が不足し、アメリカからの輸入に依存しており、軽油価格はガソリン価格を上回っている事態になっている。
 いうまでもなく原油からは軽油、ガソリンなど石油製品は原油から一定の比率で生み出されるのに対して、実際の需要は地域差が大きく、アンバランスな状態であることは大きな問題である。
 ただ、はっきりしているのは、軽油、ガソリンなど原油から精製される液体化石燃料は、高カロリーで、エネルギー密度が抜群に高く、取り扱いが容易であるため、自動車用燃料としては最も優れていると言うことである。
 もうひとつ、原油由来の石油製品は、現在の化学工業製品はもちろん、その他の幅広い産業で不可欠になっており、これが石油のもたらした文明と呼ばれるゆえんとなっているのだ。
 原油の枯渇、埋蔵量限界説は1960年代から語られているが、現在は採掘コストの安い場所でのみ生産されているため、真の埋蔵量は判明していない。原油が枯渇する推定は30年とも70年ともいわれており、その一方で石油採掘企業はまだ未知の原油が大量に存在しているとしている。ただ、原油が有限であることは事実であり、原油に代わるエネルギー源として、天然ガス、メタンハイドレートなどが考えられている。
 近未来では原油関連製品をより効率的に使う前提で、当分の間は輸送用燃料としての主役の座は譲ることはないだろう。
 グリーン・ニューディール政策、もっと以前ではブラジルのアルコール燃料政策など、バイオ燃料は代替燃料として着目されて久しいが、農産物から作り出すバイオ燃料は結局のところ人類の自殺行為であり、次世代のバイオ燃料や、アスファルトなどから製造する合成燃料は、原油由来の燃料に比べてコスト的に成立しないため純粋な経済原則の元では拡大させることは難しく、もっぱら国家政策として推進していくほかはないと思われる。
 
 FCの燃料として、あるいは従来の内燃機関の燃料として着目されている水素は、究極の環境燃料と呼ばれている一方で、現実には化石燃料から生成されているのだ。もちろん技術的には、他の方法で製造可能であるが、これも純粋にコスト、需要量の問題であろう。ただ、ガス燃料は取り扱いが難しく、かつインフラを根本的に更新する必要があり、自動車のためだけに社会的なインフラを構築し水素を供給するという発想には無理がある。
 水素エネルギー論は、国家戦略的な位置づけが行われなければ絵に書いた餅というべきだろう。
 水素だけではな、CNG、LNGなど化石天然ガスも、単に自動車用燃料という位置付けではなく、国家的なエネルギー戦略の一貫とされなければ意味がない。現に、都市ガスはすでに天然ガス化され、火力発電所も天然ガスの利用に転換されている。自動車用としては圧縮されたCNGが一部で運用されているが、GTL(生産段階で燃料用液体に変換する)がむしろ今後の課題で、現時点では水素よりGTLの方がより実現性が高く、性質的にも好ましい。
 
 自動車メーカーの存立は、基本的にはエネルギー政策に左右される。そういう意味では
ガソリン・エンジンやディーゼルエンジンはいつまで作り続けることができるのかという答えを模索しているのである。
 自動車メーカーなりの解答は、ポスト原油の時代のためのクルマとしてEV、FC、水素エンジンであり、ハイブリッドカーは従来エンジンを延命させるひとつの方法とされる。また従来エンジン技術を前提にしたバイオ燃料(バイオガス、バイオディーゼル、合成燃料など)対応なども選択肢の一つとなっている。
 
 現在のエネルギー問題で話をややこしくさせているのがCO2排出に関するテーマである。
 もともとエネルギー問題は、原油の枯渇や、原油価格高騰などを前提にした次世代エネルギーの議論と、現在のエネルギー消費をいかに効率を高めるかという省エネルギー論であったものが、地球温暖化論の主役としてCO2が槍玉に上がったことで、CO2排出量が最優先になった感がある。これは1988年に始まったIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が地球温暖化の主因としてCO2を上げたことに起因し、その後、1997年の京都議定書でCO2削減の基本方針が確定されている。
 しかし、一方で地球気候学的には地球温暖化をもたらす温室効果ガスは、水蒸気の役割が圧倒的に大きく、次は亜酸化窒素(CO2の310倍の温室効果を持つ)、メタンガスなどの順位となり、CO2がもたらす温室効果はきわめて低いとされている。
 温暖化を抑制するためにCO2を削減するのはピントはずれであること、人間が石油を産業エネルギーに使用し始めたのは第2次世界大戦後であり、この事実と温暖化は確かに一致しているが、長期的な地球気候として考えると、温暖期と寒冷期は周期的で、果たして原油使用と温暖化といった地球気候としてはきわめて短期間の変動を、温暖化と把握してよいのかどうか・・・まだ議論は始まったばかりである。

 クルマの近未来に絞って考えると、どれだけWell to Wheelの効率向上、つまり化石燃料の燃費を高めるかが重要なテーマであり、EV、ハイブリッド、FCだけではなく、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンの進化など同時並行的に技術を追求する必要があり、また新しいクルマの普及もそれぞれのタイプがバランスがとれていなければならない。決してEVやハイブリッドカーだけが主役なのではないのだ。
 本質的には原油から精製される製品、重油からガソリンまでをトータルで低減させないと意味がない。原油は、軽油を作ってガソリンは作らないというわけにはいかない特徴があり、原油からは重油も、軽油もガソリンも一定の割合で製造されてしまうからだ。
 そういう意味で、自動車メーカーとしては、従来の技術開発と同時にEVやハイブリッドカー、バイオ燃料や合成燃料への対応などなど新しい技術の開発が要求され、開発の負荷はきわめて大きくなったということができる。
 

混乱の時代を透視する(1)

 1929年10月、ウォール街のBlack Thursday(暗黒の木曜日)、すなわち株価の大暴落に端を発した世界恐慌の原因は次のように考えられる。
 第1次世界大戦の戦勝国アメリカは、戦争関連の輸出、重工業への莫大な投資、帰還兵による消費の大幅な拡張、フォード、GMなど自動車工業の躍進と爆発的な普及、ヨーロッパの疲弊に伴う輸出の増加などにより空前の好況となっていた。
 しかし、アメリカの農業は過剰生産であり、石炭産業は不振、重工業への過剰投資などの危険をはらんでいたが、好況を背景にした投機は過熱していた。株価は長期的に上昇を続け、恐慌直前までの5年間で5倍になっていたという。
 しかし、10月24日、GMの株価が下落し、その後はそれを契機に全面的に暴落が始まった。
さらに29日には決定的な暴落が起き、9月の株価の半値となり、1週間でアメリカの国家予算の10倍の損失となり、投機・投資資金はあらゆる分野からいっせいに引き上げられた。
 これを契機に銀行のヨーロッパでもヨーロッパの銀行が破綻するなど世界恐慌に発展する。
 2008年の世界恐慌は、2008年9月のアメリカにおける金融安定化法案が否決されたのに端を発し、株価は史上最悪の777ドルという下げ幅を記録した。その背景にはサブプライムローン問題など土地バブルを始め、金融緩和政策による過剰投機、2003年頃から始まった原油価格上昇など過剰な商品投機があった。直接的な引き金は、リーマンブラザース証券会社の破綻と、それに続く金融安定化法案が否決により、金融資本の収縮、爆発的な世界中での世界金融危機が発生した。
 この影響下で、アメリカの自動車メーカーは巨額な金融損失生じただけではなく、ローン販売が引き締められ、販売が急落し、運転資金が枯渇した。政府資金が注入され、とりあえずの運転資金は確保されたが、販売不振は顕著である。
 アメリカ市場で大きな利益を生み出していた日本の自動車メーカーは、アメリカでの急激な販売低下、それと同時進行したドル安・円高でダブルパンチを受け、減産を余儀なくされ、世界各地に多くの工場を持つトヨタなど大メーカーほどダメージが大きくなった。
 
 1929年当時のアメリカのフーバー大統領は自由放任主義経済の信奉者であり、恐慌の発生に際して、「ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われているので、株価の暴落に捕らわれる必要はない」と語った。しかし、33年に就任した後任のルーズベルト大統領は公共投資を重視したニューディール政策を実行することになった(この政策とその効果は過大評価できないのだが)。
 33年に政権を獲得したドイツのナチスは、経済再建と失業問題の解決を旗印に、アウトバーンの大建設などの公共事業により3年で失業を解決して見せた。
 2009年にブッシュに代わるオバマ新大統領は、「グリーン・ニューディール政策」を打ち出している。この政策は、クリーンエネルギー化推進によりて500万人の新しい雇用を創出し、そのために10年間に1500億ドルを投資すること、クリーンエネルギー化により中東依存のエネルギーから自立しようというものだ。
 つまりダムの建設ではなく、クリーンエネルギーという新たな産業を創出し、公共投資を行い、雇用を生み出しつつエネルギーの自立を促すというものだという。
 このグリーン・ニューディールの政策に乗って、日本でもという浮ついた論調がこのところ目立つようになってきた。先のフーバー大統領と同じで、「日本の実体経済は強固である。また日本の環境・省エネ技術は世界をリードしており、こうした時期こそチャンスである・・・etc」といった調子である。

NY原油5
ニューヨーク原油価格の推移
 
 しかし、皮肉なことに、原油価格は本来の価格、つまり経済実態に合致した価格に収束しつつある。もともと現在の需給から見た原油価格は採掘コストと適正利益を合わせ、1バーレルあたり30ドルか、それよりやや上といったレベルといわれていた。しかし2007年頃からの暴騰は、供給不足や供給逼迫感でもなんでもなくて、金融資本が商品取引になだれ込んだ投機価格だった。その背景として成長するBRIC'sの需要見込み、原油の枯渇などが煽られたのだが、現実の需給関係はバランスが取れている、あるいはむしろ日本などは需要が低減しているのだ。
 金融資本が収縮した結果投機資本は去り、原油価格は40ドルを割り込むレベルになっているのが現状だが、いいかえれば見事に本来の需給レベルに収束したともいえるのだ。OPECやロシアなどは原油の減産に移っているが、価格は安定しつつある。
 この原油価格がどのくらいの期間維持されるのか、これは注視する必要がある。
 代替エネルギー、クリーンエネルギーは、原油価格が100ドルの時期をベースにしており、100ドル以上であれば代替エネルギー、クリーンエネルギーは成立するが、現状ではとうてい採算が取れない状態になっている。
 したがって、グリーン・ニューディールは、現実の採算を無視したきわめて将来的な夢への莫大な投資になるといわざるをえないのだ。景気対策としての公共投資政策としては一理はあることは認めるにしても。
 
 アメリカの自動車メーカーは、グリーン・ニューディール政策を前提に、電気自動車、ハイブリッド化に急速に舵を切りつつある。
 日本では、ホンダがFC(燃料電池車)とハイブリッドカーの2本立て路線、トヨタはハイブリッド、その他のメーカーはEV(電気自動車)とハイブリッドカーをメインにしている。なお量産ハイブリッドカーとして成功し事業として成立しているのはトヨタ・プリウスのみという現状から、ここ当分は電気自動車が主役となりそうな気配だ。
 しかし、電気自動車は本当にその価値があり、主役足りえるのか?
 現在で最も実用化が進められている三菱i-MiEVの車両重量は1080kg、ベースとなっている三菱iは910kg。つまり高性能リチウムイオン電池を搭載しているものの約100kgの重量増となっている。そもそも電池はエネルギー密度が低いため、電池重量を要し、ガソリンとは異なり、エネルギーを消費しても重量は軽減しない特徴がある。だからEVの本質的な非効率さを否定できないと思う。
 また航続距離は120Kmていど(モード燃費相当では160㎞)。ガソリンを使用するiの航続距離は390㎞ていどである。したがって、EVは限定された使用とせざるをえない。
 もうひとつは、Well to Wheelで考えると、EVはどれほど優れているというのか。現在の電力の70%はは、原子力発電と火力発電(各35%)に依存しており、火力発電は天然ガスを燃料としている。したがって電力の35%は化石燃料に依存し、Co2を排出している。
 また発電から電池への充電までの伝達効率は60~70%といわれる。見かけ上のガソリン消費は存在しないのだが、エネルギー効率では現状のガソリン・エンジンよりわずかに上といったレベルなのである。
 また、電池に関しては様々な模索途中である。現在のところ、リチウム・ポリマー・イオン電池が最もエネルギー密度に優れているとされているが、価格はきわめて高価だ。一方でニッケル水素電池も性能を高めており、次世代電池としてカルシウム・イオン電池なども研究されるなど、まだ過渡期にあり、価格の低減は当分の間見込めそうにもないのが実情である。したがって、政策的な援助がなければ高性能電池搭載車は価格競争力は持てないのである。

 いうまでもなくEV、つまりモーター駆動車は、低速トルクが強力、騒音がなく静粛で滑らか、エネルギー回生が容易にできるといった優れた点がある。これを生かすには、電池やプラグインだけに依存するのは無理があり、高効率の発電エンジンを搭載したエンジン-エレクトリック車こそが本命ではないかと思う。
 その点では、発電を行う燃料電池車は正解といえるのだが、エネルギー源である水素を搭載することには無理がある。
 
 
 
 
 

アンダー/オーバーステア奇談

 最近はさすがに自動車雑誌の試乗インプレッション記事で、「アンダーステア、オーバーステア」の類の言葉は少なくなってきた。しかし70~80年代の試乗インプレッションでは、このUS、OSについての記述が30%ほどは必ず割かれていたものである。ちなみに、このUS、OS以外はエンジンのフィーリング、残りの40%はそのクルマのスペックの説明である。逆に、操舵フィーリングや、乗り心地、居住快適性などに触れられることは稀であった。
 もちろん、こうした試乗インプレッションでUS、OSの議論をするという風潮は自動車評論家やマニア層の誤解だった。簡単に言えば、山道のコーナリングでオーバースピードでカーブに進入し、ステアリングの切り遅れ、戻し遅れ操作をすれば間違いなくフロントタイヤは大きなスキール音を発生し、強いアンダーステア状態になる。これはいわばそのドライバーが人為的にUS状態を作り出しているにもかかわらず、そのクルマはUSが強い、とコメントされたものである。

 アンダーステア、オーバーステアという概念は、実は1960年代頃までは明確ではなかった。それ以前は、漠然とした「安定感」といった評価が行われていたようだ。50年代後半頃から、航空機でいう「発散と収斂」という操縦特性論や、欧米のUS、OS評価を参考にしながら、操縦安定性理論として、US/OS理論が次第に確立され、自動車メーカーの社内試験でも実験が行われるようになったものと考えられる。この後、US/OSの考え方が広まり自動車雑誌を席巻したという経緯があるのだ。
 US/OS理論はもともとはクルマの運動性能を実験・評価するために生まれ、その実験は半径15mの円周上を、クルマの舵角を固定した状態で緩加速し、走行軌跡の変化を記録するという方法が採用された。最初の頃は、軌跡の変化はバンパーからインクを地面に滴らせ、それを計測したという。
 もちろん、実際のクルマはUSになるように設計されているため、こうした実験では車速が高くなるにつれUSが強まり、最後にはOSに転じるとされた。実はこの原因は、当時はリヤ・サスペンションがリーフスプリング式であるため、リーフスプリングが支持するアクスル位置がずれてしまうことに起因することが多かったようだ。なおこの当時の高性能車で横向き最大加速度は0.7gていど、一般的な乗用車では0.5gくらいであったそうで、今から思えば恐ろしく限界が低かった。

11.jpg

 ちなみにこの当時は、大学の研究室でも自動車メーカーでも、理論的に最大横向き加速度は1.0gを超えることはない、つまりタイヤのグリップ力は1.0g以下と考えられていた。
 こうした実験から、スタビリティファクターという概念が生まれた。
 操縦安定性理論では、この他にクルマの方向安定性、復元性を計測するために手放し方向安定性試験も行われた。これは、直線走行をしているクルマに、急激な片側操舵を行い、その後はステアリングから手を放し、クルマの周期的な動揺の周期、収束時間、横向き加速度などを計測し、方向安定性を数値的に評価するというものであった。
 注意したいのは、US/OS試験、手放し方向安定性試験などいずれも、現実のドライビングではあり得ないシーンであり、数値を把握する計測であったということである。
 その後、さらにステアリング舵角に対するヨーレイトの応答周波数や、ステアリングの位相遅れなども計測されるようになり、操縦安定性試験が確立されたといってよいだろう。

 もちろんこうした試験は完成したクルマの試験方法であり、自動車メーカーでは狙いに合致した操縦安定性を得るための実験、研究が行われ、技術や経験が蓄積され、1980年代には日産の「901運動」のような、世界トップレベルを狙う試みも行われるようになった。
また、サスペンションのコンプライアンス・ステア、ロール、ピッチ、バウンス、アンチダイブ、アンチスクヮットなど、単純なジオメトリーだけではなく車体の姿勢に伴う操縦安定性や、乗り心地に関わるコンプライアンス、メカニカル・コンプライアンス、より大きな領域ではタイヤ特性、サスペンション・フレーム、ボディ、エアロダイナミックスにまで幅が拡げられている。
 また結果的に、クルマのグリップ限界が大幅に高められており、かつてのような単純なUS/OS論はさすがに影を潜めるようになったのだろうと思われる。
 これと似たような例として、前後荷重配分の話題もある。こちらはより原理主義的な話なので、現在でも話題になることは少なくない。BMWなどは未だに50:50優位論をぶち上げるもの火に油を注いでいる。もちろんこの議論は、パッケージング、駆動方式、そしてもちろんクルマのコンセプトなども合わせて考えないと意味がないのと思う。

 ところで、現在のUS/OSは自動車メーカーではどのように考えられているのか。US/OSはクルマの走行中の操縦性を示すが、これはそもそも前後輪のグリップ力のバランスの問題で、極端な特性の場合は容易に限界を超え、滑り出すのはそもそもそのサスペンションに大きな問題があることを意味する。だから、そのような事態が発生しないようなシャシー性能が求められるので、前後輪のグリップ限界を高めることと、例え限界を超えてもドライバーがパニックにならないような穏やかなUS/OS特性が追求されている。また昔よりはるかに高性能化しているため、US/OS特性と同等以上に、安定性が重視されていることは間違いない。

Euro Car Body Award 2008

 ユーロ・カーボディ・アワード、つまりカーボディ賞が2008年10月に決定された。
 http://www.automotive-circle.com/index.cfm
 カーボディ大賞といっても、衝突安全の評価ではないのだ。
 主催はオートモーティブサークル。もともとはヨーロッパの自動車メーカーのボディ設計、材料屋、生産プラント技術などのエンジニアの情報交換サロンだったと思うが、賞はクルマのボディのエンジニアが集まって、お互いに評価し、優れたボディと思われるものを採点して選ぶという、専門的なものだ。ジャーナリストではなく専門のエンジニアがお互いに評価するところがすごいところであり、専門的評価として信頼できる。
 実に渋い賞である。
 このサロンに参加しているのは、AUDI、BMW、OPEL、FORD(ドイツ、ダイムラー、FIAT、ジャガー、プジョー・シトロエン、ルノー、SAAB、シュコダ、VW、ポルシェ。そして最近は日産、ホンダ、トヨタ、ヒュンダイといったアジア組も加わっている。基本姿勢は、ヨーロッパ組だけでなく望めば参加できるオープンスタイルのようだ。
 
 で、2008の大賞はAUDI Q5、2位がVWパサートCC、3位がホンダJAZZ(フィット)。
 Q5は徹底した空力、優れたボディ設計技術、A4との混合ライン生産の技術が評価された。アルミとスチールのボディ骨格はASF(オールアルミ技術)からの援用で、剛性骨格とパネル部を明確に分けたスペースフレーム技術がボディ設計のハイライトだろう。確かにモノコックボディ=ユニットコンストラクションになって以来、骨格とパネルの切り分けが不明瞭になっていた時代があるが、スペースフレーム・コンセプトが掲げられてからは、改めて骨格と外皮の相互関係がロジカルに明確になったといえる。また徹底した床下空力の美しさも高評価となっているようだ。
 2位のパサートCCは、軽量設計、高張力鋼板の熱間プレス技術を駆使した高剛性構造、さらに混合フレキシブル製造ライン適合性などが評価された。
 3位はホンダJAZZ。正直、えっと思ったが、デザイン/パッケージング、コストパフォーマンスなどが高く評価されたようだ。
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Q5-lg.jpg
↑相変わらずロジカルで美しいAUDI Q5のホワイトボディ。実はこのホワイトボディだけではなく、サブフレームも凄いのだが。


 
 
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