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フロントローディング

 新型車の開発期間を短縮することは、大きなコスト低減になる。かつてのヨーロッパ車はモデル・サイクルが7年程度で、次期型の開発には5年間以上の歳月をかけていた。
 しかし現在では、開発コストを削減することが大きなテーマになっており、トヨタ流の短期開発のシステムは主としてドイツメーカーが積極的に採用し、現在では各メーカー共通の開発手法となっている。
 トヨタは、設計図面の出図から14ヶ月以内にラインオフ、すなわち発売という短期開発のシステムを作り上げた。それはトヨタではフロントローディングと呼んでいた。
 つまり前倒しである。
 もちろんこの背景には、エンジンやトランスミッション、シャシーなどの基本コンポーネンツ、要素開発は実際の車両開発より1~2年先行している必要がある。したがって基本コンポーネンツの設計部や実験部は、先読みの能力が求められるのだ。
 また実際に新型車を開発する開発チーム(製品開発室、車両開発、開発プロジェクト室などの名称が使用される)は、新型車開発のための調査や研究などコンセプト・メイキングには1年間ていどの時間を要するので、これも14ヶ月以前に先行していなければならない。新型車の開発コンセプトが決定され、コンセプトに従って新型車の仕様や要求性能、デザイン決定が行われ、これに従って設計部では図面を作成する。もちろん現在ではCADを使用した電子図面である。
 図面が工場や部品メーカーに提出されたところから、実際の車両の開発がスタートするのだ。こうした一連の流れは、実は昔から大きく変わってはいない。
 ただ、以前は、図面を基にした試作部品によりプロトタイプ車を組み立てた1次試作車を作り、これをテスト評価して改良点を取りまとめ、部品を改良して2次試作車を作り、再び評価を行うというサイクルが繰り返される。まったくの新型車を開発する場合は、4次、5次試作を行うといった例も過去にはあるのだ。
 しかし現在のフロントローディングでは、図面を受けた段階で、完成車に近いレベルで
試作部品を製作する、試作車で現物合わせを行なわず初期段階から煮詰める、シミュレーションを事前に徹底し、試作段階での補強などを極力しない、最初から生産技術担当が介入し、工場での量産に適するかどうかがこの段階で判定される・・・といった条件が求められるのだ。したがって配線なども最初から量産車の形状に合わせた形状の配線となる。
 当然このフロントローディングでは部品メーカーの負担も大きい。1次試作の段階でほぼ完成品並みのレベルが求められるため、部品の開発は常に自動車メーカーより先行している必要があるのだ。そして先行開発をベースにして、従来より短期間で仕上げなければならない。
 このような結果、現在の1次試作車は以前の試作車に比べるときわめて完成度が高く、試作車組み立ての段階で齟齬をきたすことはまずあり得ないという。
 もちろんこの段階では100%ではないので、試作車の評価・試乗の後に改良点が絞り込まれ、量産化の仕様が決定する。ちなみに1次試作車=最終試作車が完成するのは出図から6ヶ月後あたりだ。
 一方、実験部門はこの試作車を使用して、最終的な熟成を開始する。性能の確認、細部のチューニングなどが行われるのであるが、残された時間は6~7ヶ月である。車種によっては海外にも試作車が送られ、現地での適合テストを実施する。
 最初から決定されている量産ラインオフの日程に合わせ、ラインオフの1ヶ月以上前には量産試作が行われる。生産工場での試し打ちである。この量産試作車が最後の評価を受け、量産にGOがかかる。なお量産試作車はシャシーナンバーが打刻されている。
 ちなみに、自動車メーカーの所有しているマスコミ向け試乗車は、この量産試作車を最終手直しした車両であり、販売店へデリバリーされるのは量産車である。
 このように見ると、熟成テスト&チューニングの期間がいかに短期間かがわかる。
 ただし、こうしたフロントローディング開発でも、日本とヨーロッパではいくらかの違いがある。日本では、法規上の制約もあり、熟成テスト&チューニングはほとんどがテストコース内で行われるが、ヨーロッパのメーカーは、アルプスや北欧の道路で実施する時間が長く、この場合は部品メーカー、例えばダンパーメーカーなどが帯同し、現地でチューニングを行っていることが多い。
 もうひとつは、品質管理=量産仕様のチェックが意外なことにヨーロッパのメーカーのほうが厳格だということだ。
 日本のメーカーは、ラインオフ、つまり発売時期は厳守であり、これを守るあまり量産車が時間切れで煮詰めきれずに発売されてしまう例も少なくない。これに対してヨーロッパのメーカーは量産車の仕様、性能のチェックは厳格であり、輸出が多い車種の場合は仕向け地でのテストも行われる。ここで問題点がある場合は量産がストップされ、改良が行われ、結果的には発売時期が遅れてしまうことも少なくない。ヨーロッパ車で、発売やデリバリーが予定よりしばしば遅れるのはこのような原因が多い。
 ただ、いずれにしてもこのようなフロントローディング開発では、開発・熟成の時間的な制約があることは否定できない。このため、量産が開始されても、1年ごとの年次改良が重要になってくる。ただ、これも日本ではそれほど重視されず、逆に量産途中でVA(部品再評価)によりコストダウンを行う例もある。
 これに対して年次改良は、不具合箇所の改善はもちろん、さらなる性能向上、改良が行われるので、ヨーロッパ者の場合は同じモデルでも年次により相当な違いを生じることは常識になっている。
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現在のカーデザインのプロセス

 クルマのデザインは、クルマの魅力や価値を左右する重要な要素である。また現在はひとつの自動車メーカーで多数の車種系列を持っているので、ブランド性を維持するためにもデザインは重要になってきている。これは最も古い自動車メーカーであるダイムラーベンツ社でさえ緊急の課題になっているのだ。
 かつてのクルマは、1人で、あるいはせいぜい数人でデザインを行ったが、現在では大組織の中でデザインの開発が行われている。また、現在のデザインは大量生産が基本となるため、工場の生産技術能力とも密接に関連がある。
 もちろん現在でもフェラーリやアストンマーティンなどに代表されるハンドメイドカーは存在する。このような場合はボディのデザインも純然たる手作りとなり、ベルトコンベアーのラインで製造されるクルマデザイン的な制約が異なることはいうまでもない。
 現在の量産車は、デザインと工場の生産技術が整合されていなければならないのだ。
 
 現代のクルマのデザインプロセスは、どの自動車メーカーでも似たようなシステムを採用し同様のプロセスをたどる。違いがあるとすれば、日本とヨーロッパ系メーカーとの違いだろう。日本の自動車メーカーはその企業で育てられたデザイイン・チームが基本で、それ以外に海外で募集された海外デザイン・チームを持つことも多いが、基本的には企業内デザインである。ヨーロッパのメーカーは、もちろん企業内でのデザイナーも育成しているが、それ以外に実力のある主任デザイナーはチームを組む弟子たちとともにメーカー間を転職するというプロフェッショナル・デザイン・チームも存在する。
 また概してヨーロッパの主任デザイナーはデザイン開発に当たって指導力を発揮するが、
日本の主任デザイナーはチームの調整型であることも少なくない。したがって日本の自動車メーカーでも、スバル、三菱、マツダのようにデザイン責任者にヨーロッパ人デザイナーが就任すると、強力で明快な指導力が発揮され、結果的に若いデザイナーの力が発揮できるといった現象も見られる。

 新しく作るクルマのデザイン作業は、ほぼ次のようなプロセスをたどる。
 まず、車両の企画構想にあたり、コンセプトの模索、コンセプトリサーチが行われる。
 もちろんこれはデザイン・チームが単独で行うわけではなく、車両を企画する商品企画部門、実際の開発を担当するチーフ・エンジニアを筆頭にした製品企画チームとデザイン・チームが連携して担当する。ここでは競合車の動向、消費者の動向、社会的なトレンド、流行などを踏まえながら、その次に来るものを予測することが求められる。
 同時並行的に、マーケットリサーチや現行車のユーザー調査し、これも参考資料となる。
 こうしたリサーチを経て、開発コンセプトが固められ、同時にデザインの構想が始まる。
 最も初期段階では、デザインをイメージしやすくするために、動物やキャラクターなどが選ばれたりすることもある。例えば、外洋型豪華クルーザーだったり、ジェット戦闘機であったり、黒豹だったり、100mランナーのスタート姿勢だったりする。
 こうしたイメージを念頭に置きながら、デザイン・チームはさまざまなスケッチを描く。
 また、デザイン構想の段階で、複数のデザイン・チームによるコンペティションが行われるのも常套手段となっている。トヨタであれば、本社チーム、東京デザイン・チーム、アメリカ・ロスのデザイン・チーム、ヨーロッパ・ニースのデザイン・チームという4チームによる競作になり、まったくの新型車の場合にはさらに社外のデザイン会社にもコンペ参加を依頼することもある。
 コンペの場合は、各チームがデザイン構想を提案し、それぞれのスケッチやレンダリング、1/4クレイモデルなどを見ながら主任デザイナーと開発チームがデザインの絞り込みを担当する。もちろん最適なものがなければ、デザインのやり直しとなる。
 ある程度デザイン構想が固まった場合は、想定ユーザー層を集めてこのデザインを見せて意見を聞く「デザイン・クリニック」が行われることも少なくない。この場合は、第3者のエージェントがメーカー名や車名を秘匿した上で、デザイン画やクレイモデルを見せ、反応や人々の意見を集める。このクリニックは、もっと後の1/1モックアップを見せて行うこともある。
 デザイン構想が決定すると実際のデザイ作業に入り、ボディの寸法要件を取り入れながら1/1モックアップが製作される。かつてはエクステリアだけではなく、インテリアのモックアップも製作されたが、現在はコンピューター上でのバーチャル・デザインによる検討が主になっているようだ。ボディの寸法要件とは、全長、全幅といった外寸から、室内の必要なスペース寸法、Aピラーの高さやフードトップ(フロントガラスの下端)高さなど設計上の数値がインプットされるということだ。
 こうしたパッケージングは、自動車メーカーごとに実行部署が異なり、車両企画部門、デザイン部門、車両開発部門などが行うようだ。
 
 デザインの決定は、2段階がある。最初はチーフ・エンジニア(開発プロジェクト責任者)が決定し、次の段階は重役会でデザインのプレゼンを行い、正式承認となる。重役会で否決された場合は、デザインの手直しが行われる。
 BMWのクリス・バングルの生々しい奇形デザインも、重役会で承認されたことで実現したのだ。
 デザインが正式に決定されると、新たに生産技術エンジニアも参加し、デザインの煮詰めが行われる。1/4クレイモデル、1/1モックアップは、イメージ図から立体に変換し、さらに立体面の仕上げをするモデラーと呼ばれる人々の技術、能力が重要になる。日本においてはモデラーは技能員(つまり職人)の扱いが多いが、ヨーロッパではデザイナーと同等の存在であり、現在でも日本とは格段の実力差があるとされている。これはやはり彫刻の歴史の差だろう。ボディの面の構成、仕上げなどは、紙の絵やCADでは表現されていないので、実際のクルマのボディとして立体化し、面と線の美しさを引き出すのはすべてモデラーの腕にかかっているのだ。ところで、この段階では、空力の検証なども同時に行われる。風洞実験を行ったり、CAEによるシミュレーションの結果を取り入れたりと、細部の手直しの工数は少なくない。
 生産技術のエンジニアは、ボディのプレス面や結合などが工場で実現可能かどうかを検証する。いくら美しいパネル面であっても、実際のプレス加工が困難である場合はデザインの実現は難しいからだ。
 以前は工場の技術が低くデザイン的な制約が大きかったが、現在ではインバース面と強いエッジを組み合わせる(BMWのように)、縦横の90度の角度を持つ小Rのプレス(インプレッサWRX・STIやGT-R)なども可能になってきている。もちろん生産技術エンジニアは、ボディ骨格の結合構造などもチェックする。初代ヴィッツでは、アウターパネルの一部の整合が取れず、やむなく部分的にレーザー溶接を使用するなどの例もある。これはデザインを優先させた例である。
 
 1/1モックアップを計測器での計測とCADにより、最終的な図面(現在ではCADデータ)に仕上げて行く。デザインが正式承認されず、まとまらなかったり、迷走した場合などは時間不足となり、1/4クレーモデルを使って計測するケースもあるといわれる。
 デザインの図面が仕上がる頃には、シャシー、ボディ骨格、室内のデザイン、艤装、エンジン/パワートレーン/排気系などの設計図面も仕上がるようになっている。
 実際のクルマの開発はここからがスタートとなり、トヨタが世界に範を示したように、図面の出図から14ヶ月以内でのラインオフが、自動車メーカーの常識になっている。出図以後の開発時間は機密とされることが多いが、日本では11ヶ月といった例もあるといわている。VWやBMWではリサーチや基礎開発には時間をかけるものの、出図から14ヶ月はかなり早い時期から達成されている。
 

スズキ、スバルがWRCをキャンセル

 12月14日、スズキが2009年のSX4によるWRC参戦を休止すると発表した。
 そして12月16日、今度はスバルがWRCへのワークス活動を終了することを発表した。
 スズキはまたも鈴木修氏が社長に復帰したことも大きな理由か? 公式的には世界経済が当分の間は回復せず、厳しい市場環境が続くと予想し、持続的に企業を成長させるために各事業の見直しを進め、生産体制、環境対応技術、次世代パワーユニットの開発などに経営資源を集中する必要があると判断したということだ。、2009年以降のWRCへの参戦を当面の間、見送ることにしたというもの。
投資の凍結や見直しを行うということなので、鈴木修社長にしてみれば、WRC活動にストップをかけるのは当然だろう。
 スズキのWRC活動は鈴木修氏が退任するまでは望めないと思う。

 スバルのWRCに関しては、止め時を模索していたのであろうから、この絶好のタイミングで幕を引いたのだろう。かつてはWRCのマニファクチャラーズ・チャンピオンを3度、ドライバー・チャンピオンを3度獲得しているから、結果としては悪くない。しかし、である。ここ数年は戦闘力が下がる、というより他車のレベルが高くなり、これに追従できない事態となっていた。チーム運営だけでなくマシンの開発、製作も基本的にはプロドライブ社に依存していた。ここ数年は本社の選抜技術チームが基礎技術やシミュレーションを行うなど、プロドライブとの連携を強化してきたが、やはりうまく機能していたとは言いがたい。
 またスバルからプロドライブに派遣された人材は、プロドライブの代弁者になってしまうなど、プロ・チームであるプロドライブ社の高度なテクニックに翻弄され、ますます技術的な連携にはブレーキがかかったのだろう。
 これがSWRTのワークス体制であったため、WRCにおける技術的なエッセンスも、スバルに十分フィードバックされたとはいえないと思う。
 そういう意味では、早かれ遅かれ、SWRTをリセットすることは必要だったと思う。スバルのWRC活動は一時代を画し、他社が成し遂げることができなかった栄光を掴むこともできたのだから、もって瞑すべし、というべきであろう。ただ残念なのは、最後は負け逃げ状態という現実か。

 

タトラとハンス・ルドヴィンカ(2)

 ルドヴィンカは、小型リヤエンジン車の設計手法をそのまま拡大して大型リヤエンジン車を開発することにした。基本技術やコンセプトはV570を踏襲した大型セダン、T77の試作車を作り上げた。全長5.2mのヤーライ式流線形ボディはオールスチール製(当時は木骨構造が主流)で、フロアパネルと結合したセミモノコック構造であり、フロアパネルはきわめて平滑にデザインされていた。リヤエンジンのめボンネットが短く、ホイールベースは3.15mとまさに大型リムジンのサイズである。ボディ幅が広く、前後フェンダー間のステップがないフラッシュサイドとしているのも革新的だった。当時のリムジンはフロントフェンダー幅よりキャビンが狭く、サイドステップを張り出すのが主流であった。ラゲッジやスペアタイヤ、燃料タンクはボンネット内に設置し、さらにリヤシートとエンジン隔壁との間にも大きなラゲッジスペースを設けた。乗員は5人乗りで、前後のアクスルの間にゆったりとしたスペースが確保されていた。
 リヤ・エンジンのため、Cピラー上部にエアインテークをレイアウトし、ラウンドしたリヤエンジンフードには多数の排熱ルーバーがある。さらに直進安定性を高めるために垂直フィンを取り付けていた。まるで飛行機の垂直尾翼である。プロトタイプや最初の試作車ではなんとセンターステアリングを採用し、ドライバーの左右にシートを配置した前席3人乗りであったが、これは量産後すぐに左ハンドルに改められた。

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↑T77

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↑T77の美しいリヤビュー

 T77はオールスチール・ボディ、フラッシュサイド、流線形デザインなど、当時の大型リムジンとして飛び抜けた革新性を備えていた。その革新性は、例えば同じく33年に登場したメルセデスベンツ290などと見比べると、一目見ただけでタトラT77の圧倒的な先進性がわかるはずだ。ちなみにCd=0.212と公称されている。
 リヤに搭載されるエンジンは、3.0Lの空冷V8・OHCである。サスペンションはフロントが上下横置きリーフスプリングによる独立、リヤはジョイントレス・スイングアクスル+上部横置きリーフスプリングだ。
 量産型T77は、1934年のベルリンモーターショーで発表され、大きな衝撃を与えた。35年にはエンジン排気量を3.4LにアップしたT77aにマイナーチェンジした。ヘッドライトは3個で、中央のライトは操舵に応じて動く可動式であった。
 T77はタトラ社の経営判断により、ハンドメイドのプレステージリムジンと位置づけられ少量生産であった。つまりは超高級車だったのである。
 T77は瞬く間に名声を博したが、開発総責任者のルドヴィンカ、設計主任のE,ウーベルレッカーはこのT77に満足していなかった。T77はリヤ荷重が過大であり、車両重量も1.8トンあったため、軽量化、荷重配分の適正化を実行することにした。そして1936年に生まれたのがT87である。

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↑T77改、すなわちT87プロトタイプとウーベルレッカー。新エンジンを搭載している。

 エンジンは新設計のオールアルミ製3.0Lの空冷V8を作り搭載することにした。この新エンジンは75馬力を実現した。リッター当たり出力はトップレベルである。この新アルミエンジンによりリヤ部分を330kgも軽量化することができた。またボディ全長、ホールベースはT77より短縮し、全長4740㎜、ホイールベース2850㎜とし、さらにボディ構造は箱型断面フレームとアウターパネルを溶接した完全なモノコック構造とされた。これは世界初である。空力面ではボディ短縮によりCd=0.251となった。
 スイングアクスル式のリアサスペンションは、横置きリーフから縦置きの1/4カンチレバー・リーフスプリングによるトレーリング支持タイプに変更された。
 T87は新エンジンの性能が高まったことで、最高速160km/h、巡航速度130km/hを実現した。これは当時では傑出した高速性能といえる。
 高速性能だけではなくキャビン内の居住性もさらに改善され、当時随一のラグジュアリーカーとされ、T87は世界的に革新的な高性能車という評価を得て、ルドヴィンカの最高傑作とされている。T87は37年から製造されている。T87は少量生産の高級車であったが37年から1950年まで生産が続けられ、累計は3000台を超え、各国への輸出も行われた。
 なお、当時のドイツのプレミアム・リムジーンと同様に、T87は生産規模からいってアウターパネルなどはすべて簡単な治具を使用して職人がパネルを手で叩き出していたものと思われる。豪華な内装ももちろん職人による手作りであろう。

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↑T87

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↑T87のレイアウト図

 T87に引き続いて、1.8Lの空冷水平対向4気筒OHCエンジンをリヤに搭載したより小型モデル、T97が開発され、37年に発売された。T97はT87の縮小版で、コンセプトや技術はそのままに、小型化をはかったのだ。VW・KdFなど水平対向エンジンはカムシャフト1本のOHVが常識であったが、タトラは従来どおりチェーンドライブOHCとした高性能エンジンを採用していた。T97はエンジン、パッケージングとデザイン、性能のいずれをとってもこの時代の最先端であった。ちょうどこの頃、ヒトラーが提唱していたKdF(労働者向け国民車)の最後に煮詰めを行っていたポルシェ博士はルドヴィンカと定期的に会い、議論、情報交換を行っていたという。
 したがって、T97とVWタイプ30(KdFのプロトタイプ)はきわめてよく似ている。ただし、T97の価格はKdFの予定価格の5.5倍もしたのであるが。小型とはいえ高級車であった。

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↑T97のシャシー。確かにVW・KdFとよく似ているが、T97の方がはるかに高性能だった。

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↑T97のリヤにマウントされる空冷水平対向4気筒OHCエンジン。
 
 1938年、ナチスドイツはオーストリアを併合し、39年にはチェコをも併合することになった。このためタトラ社もドイツ軍管理となり、軍用トラックや装甲車の生産に専念せざるを得なかった。ロシアの寒冷地でもアフリカの砂漠でも稼動するタトラの高性能トラックは、ドイツ軍にとって貴重な存在であった。またドイツはT97の製造を禁止した。その理由はVWのKdFと酷似しすぎているからといわれている。
 その一方で、T87の生産は継続が許された。T87はドイツ軍の高級将校などに愛用され,軍需大臣のF.トートも高速性能に優れた高性能車として認め自らハンドルを握ったという。
 ナチスドイツが敗戦により崩壊した後、タトラは戦後もT87の生産を続けた。ただしチェコはソ連の影響受け、チェコ・スロバキアという共産主義国家となってしまった。
 それでもT87は、1950年までに累計3018台が製造された。
 ハンス・ルドヴィンカは共産体制下でナチ協力者とされ、1951年まで獄中にあった。皮肉なことにポルシェ博士と同じ境遇となったのである。しかし51年に釈放され、タトラ社への復帰が勧められたが、ルドヴィンカはチェコを去りオーストリアに移住し、技術コンサルタントとなった。さらにその後はドイツのミュンヘンに移り住んだ。ルドヴィンカはポルシェ博士より長生きし、晩年までT87のハンドルを握っていたという。1967年、ミュンヘン市内で交通事故により89歳で死去した。
 戦後のタトラ社は国家統制のもとで、ミドルレンジの乗用車とトラックの生産に専念することになった。小型車はシュコダが担当した。ルドヴィンカが収監された後は、彼の弟子たちが開発を受け継ぎ、1947年にT97の後継車というべきT600(タトラ・プラン)を開発し発売した。T600は空冷水平対向4気筒で、排気量は2.0Lであった。
 T600はチェコのみならず周辺国でも人気を博したが、51年に政府の決定により、T600の生産はシュコダに移管され、タトラはトラックの生産に専念することになった。

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↑T600(愛称はプラン)

 しかし53年に、再びタトラに乗用車の生産の再開が許されたため、ユリウス・マカールなどルドヴィンカの弟子たちは大型のリムジン、T603を開発した。新開発の軽量なアルミ製の2.6L・V8・OHVエンジン(より軽量化のためにOHVに変更した)を搭載し、ボディはより近代的な、というより未来的なセンスで美しく仕上げられた。T603の発売は57年で、75年まで生産された。
 その後、T603の後継車としてT613が開発された。このモデルはイタリアのヴィニヤーレにデザインを依頼し、その結果従来の流線形から脱皮し、デザインは直線ラインを多用した近代的なイタリア車のようになった。エンジンはDOHCのV8に強化された。またこのモデルからエンジン搭載位置が前進し、リヤ・アクスル上になり、デフはオイルパンの下側に置かれた。またフロント・サスペンションはストラット式に、リヤ・サスペンションはセミトレーリング式に変更されている。

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↑T603 未来的な独特のデザインで、ヨーロッパには熱狂的なファンが存在する。

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↑T603

 このモデルは1996年まで少量生産され、後継モデルとしてT700が開発されたが、この生産は軌道に乗らないまま、1998年にタトラの乗用車生産の歴史は幕を閉じた。奇しくも、1997年にはポルシェは伝統の空冷水平対向6気筒エンジンを廃止し、新型の996には水冷エンジンが搭載されている。タトラ、ポルシェの大排気量の空冷エンジンは、主として排ガス対策のために終焉を迎えたのだ。

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↑T613 従来とはまったく異なる、ヴィニヤーレのデザインが採用された。

 しかし、ルドヴィンカの遺産とも言うべきトラックは、現在でもリヤ・スイングアクスルの形式で、空冷ターボディーゼルエンジンを搭載し、生産されている。T815,T813などのトラックの高性能さとタフさは、パリダカールラリーでもじゅうぶん証明されている。

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↑トラックのフロント・サスペンション。縦置きトーションバーを採用。

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↑6輪仕様の駆動レイアウト。鋼管バックボーンを使用。駆動輪数はモジュール設計化されている。


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↑6輪仕様の後輪レイアウト。赤い円錐はダンパーとバンプ/リバウンドコントロールを兼ねる機能を持つ。

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↑ルドヴィンカの遺産、堅牢なジョイントレス・スイングアクスルは現在でも活用されている。

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↑パリダカール・ラリーでカミオンクラスの頂点に位置するタトラ6輪駆動トラック。6輪駆動、8輪駆動車のシャシーはロケットランチャーや自走砲車のシャシーとしても使用されている。

タトラとハンス・ルドヴィンカ(1)

 ずいぶん昔の話だが、フェルディナント・ポルシェ博士の甥と会ったことがある。ポルシェ博士に関するエピソードを聞いたのだが、ポルシェ博士が最も評価していたのはハンス・ルドヴィンカだったそうだ。
 それ以来、ハンス・ルドヴィンカに対する興味を持った。
 その後知ったのだが、ポルシェ博士はルドヴィンカのアイディアをデッドコピーしてVWビートル(タイプ1)を作ったという説が流布されているようだ。しかし、これは穿った憶測に過ぎない。なぜなら二人には交流があり、むしろ盟友だったといえるかもしれないし、技術的な議論をし、情報交換を行っていた。当時の小型乗用車の技術的なトレンドを作り上げたルドヴィンカ、そのトレンドを踏まえた上で国民車を模索したポルシェといった構図になると思う。
 VW KdF(ビートル)はタトラ持つ特許の10点を使用したとしてタトラはVWに特許料の支払いを求めた。これは無視されたが、第2次世界大戦後にVWは戦時補償費を含めてタトラに賠償を行っている。

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↑F.ポルシェ(左)、チェコの女性レーサー、エリザベト・イェネック(中央)、H.ルドヴィンカ(右)1935年。

 ポルシェもルドヴィンカも、オーストリア・ハンガリー帝国に生まれた。ポルシェは1875年生まれ(チェコ地方)、ルドヴィンカは1878年生まれ(オーストリア地方)である。
 ポルシェは主としてオーストリア、ドイツで仕事をし、ルドヴィンカはオーストリア・ハンガリー帝国の瓦解に伴い独立したチェコの自動車メーカーで設計を行った。当時のチェコは、東ヨーロッパ、いや当時のヨーロッパの中で先進的な工業国であり、CKD、シュコダ(1901年から自動車製造)、タトラ(ネッセルドルフ車両製造会社)といった重工業メーカーが存在し、幅広い分野で高い技術を発揮していた。自動車に関しては、ダイムラーの自動車が登場した直後には、チェコでも自動車製造が始まっていた。
 第2次世界大戦直前の1938年にチェコはナチス・ドイツに併合されてしまったが、当時のドイツの初期型戦車、Ⅰ号、Ⅱ号戦車よりCKD製の軽戦車38tのほうが技術的には上で、ドイツは38tの価値を認めてCKDに生産を長く続行させた。またチェコのブルノ兵器廠製のBZ26(1926年型)軽機関銃は世界を席巻する。日本軍は従来の信頼性に乏しい軽機関銃をBZ26のコピーに切り替えた。このように概観するとチェコの技術的、工業的な先進性や実力が認識できる。
 
 ポルシェは、オーストリア、ドイツで自動車設計技師として各メーカーで実績を残した後に、ドイツのシュツッツガルト市に自らの設計事務所を設立した。この結果、ポルシェはドイツの傑出した自動車設計者(戦史上では常軌を逸した迷設計者とされる)とされる。ルドヴィンカはチェコのネッセルドルフ車両製造会社の設計者となり、一時期はオーストリアのシュタイア社に移るがその後はネッセルドルフ車両製造会社に復帰し、最後までここ(後のコプジブニツェ社→タトラ社)に在籍し、自動車設計を行った。
 ネッセルドルフ車両製造会社は、1897年から東ヨーロッパで最初のガソリン自動車製造を開始し、1898年にはトラックも製造を開始している。ダイムラーは1886年にガソリン自動車の特許を取得したがその後10年で同レベルの自動車を製造したのだ。ルドヴィンカは97年年に同社に入社し、まずエンジンを設計した。ルドヴィンカは半球形型燃焼室を持つOHCエンジンを実現し、1905年型のモデルS-4に搭載。その後は6気筒のS-6を設計し、当時の高性能車となりレースでも優れた成績を残した。当時はサイドバルブ式のエンジンが常識であったからいかにルドヴィンカのエンジンが先進的だったかわかる。
 ルドヴィンカは1916年に経営方針が変わったため同社を離れ、オーストリアのシュタイア社に移りサスペンション、駆動システムの設計に携わった。ここでジョイントレス・スイングアクスルの基本を身に付けたのだ。1921年にネッセルドルフ車両製造会社に呼び戻され、主任設計者となり、1100ccの小型車、T11を開発した。このモデルからタトラというブランド名が付けられた。T11は鋼管製バックボーンフレームを採用し、このバックボーンはプロペラシャフトを収めるトルクチューブとして機能する。フレームの先端に、空冷式水平対向2気筒OHVエンジンと変速機とを剛結配置し、構造部材としている。フロントサスペンションの車軸を支える横置きリーフスプリングはエンジンに直接固定された。またリヤはリヤデフ上に固定された横置きリーフスプリングのアームとジョイントレス・スイングアクスルによる平行リンク式の独立サスペンションであった。簡潔かつ強度が高く合理性を極めたシャシー、パワートレーン・レイアウトである。
 
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↑T11の鋼管バックボーン・シャシー。空冷2気筒エンジンがトルクチューブを兼用のバックボーン鋼管の前端に剛結される。

 ボディは箱型セダン、トラックがラインアップされ、ベストセラーとなった。このT11はその後は4輪ブレーキ化、フロント・サスペンションの独立懸架化などの改良を行い、1925年のタルガフローリオでは1100ccクラス優勝を遂げている。
 
 この大成功により、ジョイントレス・スイングアクスルと鋼管バックボーンフレームは、タトラの基本技術となった。1926年にはセミ・キャブオーバー型のT23トラック(4気筒7478cc/64HP)、27年には後輪を2軸とした6輪トラックのT26など大型トラックもラインアップされた。当時も今も、独立懸架を持つ大型トラックは異彩を放つ。ちなみにメルセデスベンツがリヤにスイングアクスルを採用したのは1931年である。
 1929年には6輪10t積みの大型トラックT24を発売。水冷6気筒12215ccエンジンは114馬力を発生する世界トップレベルの高性能トラックであった。そして、1930年に油圧ブレーキ装備の3t積み中型トラック、T27を発売し、このモデルはなんと1947年まで生産された。
 1933年に開発された全輪駆動のT72は空冷エンジンを搭載。オーバーヒートや冷却水凍結の恐れがないこのタフなトラックは翌年のベルリン・モーターショーに出品され、アドルフ・ヒトラーは強いが関心を抱いた。オーストリア出身のヒトラーは同郷の有能なルドヴィンカに敬意を払った。(ポルシェもヒトラーに重用されたことは有名だが、その前にはスターリンにも声をかけられた経歴がある)モーターショーの夜、ヒトラーは自室にルドヴィンカを招いて意見を交わしたという。
 ルドヴィンカは、以後はトラックには空冷ディーゼル・エンジンをラインアップし、空冷エンジンは気筒ごとに独立したシリンダーヘッドと組み立て式クランクシャフトにより、気筒数を自由に選ぶことができるようにした。1942年には空冷V12ディーゼルの6輪大型トラック、T111を開発。後輪スイングアクスルのこの大型トラックはドイツ軍に愛用され、戦後にはソ連軍でも多数使用された。このモデルは1962年まで生産され、その後の新型モデルもこの血統を現在まで受け継いでいるのだ。
 
 ルドヴィンカは乗用車に空冷エンジン、ジョイントレス・スイングアクスル、鋼管バックボーンフレームをいち早く採用したが、ボディに関しては箱型セダン形式を採用していた。ボディに関しては、1921年に航空機エンジニアのエドムント・ルンプラーがトロッペンワーゲン、すなわち流線形車が話題を集めた。トロッペンワーゲンは当時のコンポーネンツ・レイアウトを前提にした流線形ボディを架装したものだが、今日の空力測定ではCd=0.28といわれている。

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↑トロッペンワーゲン

 しかし当時の自動車界により大きな影響を与えたのは、ハンガリー出身でツェッペリン社のエンジニアのパウル・ヤーライの流線形理論であった。ヤーライは流線形ボディのコンセプトとパッケージングを両立させ、デザイン的な美しさを加えた。これはその当時のデザイントレンドを作り出したバウハウス・デザインとも一脈通じるところがあると思う。
 ヤーライの理論は、当時のポルシェやルドヴィンカにより大きな影響を与え、ルドヴィンカとヤーライとは新たな小型車でコラボレーションも行っている。これによってルドヴィンカは流線形ボディをマスターしたのである。
 ルドヴィンカは次なるステップとして新しい小型車を構想した。ルドヴィンカはこの小型車は従来から実現してきた技術に加え、最新の流線形ボディ、空冷リヤエンジンという新たなアイディアを投入することにした。
 1931年、ルドヴィンカとエーリッヒ・ウーベルレッカー技師は、新しいパッケージングの小型乗用車、V570を試作した。空冷の水平対向2気筒エンジンをバックボーンフレームの後端に搭載したRR駆動方式である。このV570と相前後して量産中型車、T57が開発されたが、このモデルは空冷4気筒エンジンを従来のようにフロントに配置した。このT57のボディのためにヤーライが流線形ボディをデザインしている。ただしこれは量産モデルとしては実現しなかった。さらに33年、ヤーライは小型車V570の改良型プロトタイプのために新たな流線形ボディをデザインする。これこそ後のVWビートルの原型になったといわれるデザイン&パッケージングである。
 しかし実はこの時代にはタトラだけではなく、ポルシェもドイツで小型モデルを数多く試作していた。ポルシェはもともと大衆向けの小型車を設計することも理想のひとつとしていた。そのためポルシェはワンダラー、ツンダップ、NSUなど小型車を得意とするメーカーで試作車を設計、試作している。いずれの試作車もヤーライ理論の影響を受けたポルシェ社のデザイナー、エルヴィン・コメンダが参画し、流線形デザインとしていた。非力な小型車であるため空気抵抗が小さな流線形とすることで高速性能が発揮できると考えられたのだ。(ただ、1932年に中小メーカーが再編され、アウトウニオンを結成するなど激動の時代であったため、ポルシェの試作車はいずれも量産化されなかった。ポルシェの小型車構想が一挙に実現に向かうのは、33年に成立したナチスによる国民車構想が掲げられたことによる)

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↑V570 プロトタイプ

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↑ヤーライのデザインを取り入れたV570 プロト2

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↑ヤーライがデザインしたT57改を現在のCADで復元したもの

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↑ポルシェ博士がNSU社のために設計した1932年プロトタイプ(タイプ12)

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↑ポルシェ博士が設計したVW用試作車のシャシー(1936年)バックボーンシャシーはタトラ方式であることをポルシェ自ら公言している。

 ただ、いうまでもなくヤーライが直接的に協力したタトラV570プロトⅡが本家本元の流線形デザインであったことはいうまでもない。
 しかしタトラの経営者は、こうした大衆向けの新しい小型車に否定的で、レドヴィンカに対し新しいリアエンジン車は付加価値の大きい大型車で行うように命じ、V570計画は破棄させた。この経営者の決断は、その後のタトラの乗用車の方向を決めたといえるかもしれない。

ホンダのF1撤退

 やっぱり・・・という気がしないわけでないが、ホンダがF1から撤退することを発表した。発表の内容は、経済状況の悪化に伴い、利益が大幅に低減することが見込まれるため、経営資源を本業に集中させたいという理由となっている。
 たぶん福井社長や経営陣は、今年の途中から撤退を考えていたと想像できる。
 もうひとつ注目すべき点は、従来はホンダはF1活動を休止したことはあったが、撤退とは表現しなかったのに対し、今回は撤退である。この前提には、来年からしばらくはエネルギー回生システムの採用やエンジンのワンメイク案など、本来のF1グランプリ像にとって好ましからざる方向に進むとの見通しがあり、そうなればホンダの意欲をかきたてるものではないという判断もあるのだろう。
 しかし、金融危機による経営環境の悪化といった背景は最終的な撤退の引き金にはなったものの、実際のところは惨憺たる成績に対する絶望感も小さくないはずだ。
 決勝レースのラップタイムがトップグループから1秒以上も遅いのではレースにはならなかった。現在のホンダF1チームの枠組みはBARと組んだ2000年シーズンからで、2005年にはオールホンダ体制となっているが、その状態での惨憺たる結果であるため、本田技研側にとってF1グランプリ参戦の意味は認められず、むしろイメージダウンでしかなかったはずだ。
 もともとホンダのレース活動は、本田技研工業とホンダ技術研究所の間で齟齬をきたしやすい特徴を持っているが、現在までのレース成績と撤退決定は栃木研究所(TRD)、青山本社ともに頷かざるを得なかっただろう。
 
 ホンダは1964年、当時はまだ1.5Lエンジンの時代にF1グランプリに挑戦した。当時は本田宗一郎社長の号令の下に、無謀にもグランプリに挑戦したのであるが、この時には中村良夫という優れたエンジニアが開発、レース運営を1人で担当し、チーム要員もオール社員という思い切った構成で、エンジン、シャシーともに内製であった。このような体制で勝利を挙げ、これは快挙というべきであろう。
 ただ、この第1期、4年間の活動は、本田社長と中村技師との戦いの場でもあったのだが。

 第2期は、1983年から92年までの9年間で、この時期はエンジン・サプライヤーとしての参戦であった。1.5LターボエンジンからNA化の時代であり、電子制御ターボの時代には無敵のエンジンとなった。
ホンダ・エンジンを搭載したのはウイリアムズやマクラーレンなどトップチームであり多くの勝利を記録したが、その反面で、A.セナなどドライはーはホンダが契約したり、ホンダのエンジニアがチームの「総監督」を自称したりと、イレギュラーなレース活動でもあった。また、エンジンは和光研究所で選抜されたチームが開発、製造を行うといった体制であった。
 レースの成績的には文句はつけようがなかったが、本社の企画室と和光研究所の選抜チームだけによるF1活動に関与できない栃木研究所にはフラストレーションが溜まったのではないだろうか。栃木研究所では来るべきオールホンダ体制に備えて密かに試作F1シャシーを製作したり実験をしていたといわれる。
 しかしながら、NAエンジンの時代に入るとホンダ・エンジンは優位性を失い、92年に活動を休止した。

 2000年からのレース活動は、当初からエンジン供給のみではなく、シャシー開発をも担当するという形態で開始された。このレース活動は栃木研究所のモータースポーツ企画室が開発を統括し、いわば第1期と同様のオールホンダ体制となったのであるが、皮肉なことに最も惨憺たる結果に終わることになった。それは純粋に技術的な問題であった。空力とシャシーの戦闘力が低く、トップグループにははるかに及ばなかったのだ。またF1グランプリでは、1レースごとの技術的な革新が求められるが、そうした改善能力も乏しかった。最終的にはフェラーリのチーフエンジニアであったロス・ブラウンを招聘したが、これとて1年では成果は得られなかった。
 ホンダ・チームは規模的に言えば有数の自動車メーカーチームであり、スーパーコンピューターによるシミュレーション、構造計算などのインフラからエンジニアの数に至るまで遜色なかったはずであるが、カーボン積層モノコックの製造ノウハウやシャシー、空力の開発とマシン全体のバランスを実現することはけっきょくじゅうぶんにできなかったといわざるをえない。断片的な情報としても、ブレーキ安定性の低さ、トラクション不足といった症状には首をかしげざるをえなかった。
 そもそもプライベートチームは、幸運による勝利でも勝ちは勝ちなのだが、メーカーチームはテクノロジーに裏打ちされた圧倒的な勝利でなければ価値はない。そのテクノロジーが問われたことこそ最大の問題なのである。

 ホンダのF1復帰は当分望めないということなのか、永久に撤退なのか、それは今のところ判断できない。しかし、F1だけがモータースポーツではないし、ホンダの人々の多くがモータースポーツを理解しているとも思えないので、まだまだ今後学ぶべき点は多いと思う。あえていえば、WRCやルマンでもホンダの姿を見てみたいものである。

 
 
 

Z34型フェアレディZ雑感

 新型フェアレディZ、すなわちZ34型がデビューした。トヨタを筆頭に、日本のメーカーにはスポーツカーはラインアップされない中で、日産がひとりフェアレディZを守っているのは評価できる。もちろん、フェアレディZは、アメリカ市場ですでにブランドを確立しているという理由も大きい。今現在はマーケットの状況は逆風だが、いうまでもなくフェアレディZは、エンスージャスト、マニア向けに絞り込んだ少量販売商品であり、あまり逆風の影響は受けないと思われる。
 これまでのZ33型は、新世代のFM(フロントミッドシップ)プラットフォームを採用したこととデザインの革新を行ったが、その一方で、アメリカ市場を考慮したラグジュアリーさやエレガントさを意識し、走りだけではないスポーツカーの存在感を強調していた。そのためもあって、デビュー当時は、スポーツカーの走りではないと日本の自動車雑誌ではさんざんこきおろされたものである。しかしこれはあまりに近視眼的で、フェアレディZとは何もストイックにサーキット走行をするためのスポーツカーではないのだ。
 スポーツカーを所有する喜び、スポーツカーらしいスタイリングデザインを眺める喜びといった静的な要素はきわめて重要なのである。実際のところ価格ゾーンを考えても、単なる走りオタクには手が届かず、40歳代以上の余裕のある大人のエンスージャストがメインユーザー層であり、日本の自動車雑誌の論調は的外れだった。
 ただその一方で、日産の開発側もZ33型はランニングチェンジの段階で、多くの工数を要するクルマとなった。もちろんそこにはハードウエアでの未熟成な部分(特に新開発のFMプラットフォームをベースにしたボディ構造)があったが、商品企画部門と熟成部門の意思統一が徹底できなかったところもあり、ランニングチェンジでも議論を呼んだ。それは、例えば乗り心地がもっとよくできたのに煮詰め切ることができなかった、といったところである。
 そういう意味では、今回のZ34型はその反省が反映されているはずである。
 Z34型の開発キーワードは「全ては走りのために」。これはいわゆるハンドリングや加速など走りといった要素だけではなく、デザインも含めたトータルなコンセプトを示している。
 Z34型のディメンションは、全長4250mm(旧型比-65㎜)、全幅1845mm(同+30㎜)、全高1315mm(同±0㎜)、ホイールベース2550mm(同-100㎜)となった。ショートホイールベース化によるハンドリング性能の向上といわれているが、要するに全長を短縮し、全幅を拡げ、よりスポーツカーらしいプロポーションにしたのだ。もちろんホイルベースの短縮は軽量化にも貢献する。実質的に100kgの軽量化に成功したという。もちろんワイドトレッド化によるロードホールディングの向上、パワートレイン搭載位置を15mm下げたことによる低重心化、さらにはシート搭載位置も10mm低めるなど、スポーツカーらしい運動性能の向上効果も狙っていることは言うまでもない。
 軽量化のために、ボンネット、ドア、リヤゲートはアルミ製である。

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 エクステリアのスタイリングは、全幅、トレッドのワイド化はほとんど前後のフェンダーの拡大にあてられ、フェンダーの横方向への張り出しは、かつてないほどのボリューム感、ダイナミック感を強調している。この部分はポルシェを上回っている。デザイン基調はブーメラン・ライン、つまりフロントのヘッドライト、リヤのテールライトに鋭角的に干渉するラインを基本にして、GT-Rと共通性を持たせたAピラーからルーフにつながる角のあるライン、Bピラー以降のボリューム感を削ぎ落としたこと、リヤエンドのダックテール風のキックアップなどが新型モデルのキャラクターとなっている。デザイン的には一段と存在感を高め、Zらしく洗練されたといえるだろう。

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 インテリアは、伝統とモダンさ、エレガントさとスポーツ性、さらに質感といった要素をバランスよくまとめている。特に質感とカラーデザインはなかなか意欲的と評価できる。 
 エンジンはスカイラインクーペに搭載されている新世代のVQ37型、3.7LV6を搭載。このエンジンは、VVEL(バルブ作動角/リフト量連続可変システム)を採用して、性能の向上やポンピングロス低減を狙ったもの。出力は336ps/37.3kgmというパワーと最大トルクで、最大トルクの90%を2400~7200回転という広範囲で発生する扱いやすさを持ち、加えて低燃費・クリーン化も果たしている。
 トランスミッションは日産初となる7速ATと6速MTだ。ATは多段化による滑らかな加速フィールとワイドレシオ化による燃費向上、そしてスポーツカーらしい変速レスポンスを重視したもので、ステアリング裏にはマグネシウム製のパドルシフトを装備。ATとしては世界No1の変速速度だという。6速MTには、世界初となるシンクロレブコントロールを備える。ヒール&トゥなしで自動的に最適なエンジン回転数に合わせるもので、電子スロットルを備えているためにできる機構である。

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 サスペンションは、フロントがハイマウント型ダブルウイッシュボーン、リヤがマルチリンクというおなじみのタイプだが、今回はサスペンションメンバーの取り付け精度や剛性が相当に重視されていると思われる。ところで走りの熟成は、今回はきっちり仕上げてきたはずで、宣伝にはテストドライバーの親分、加藤博義さんが登場するそうだ。加藤さんはスカイライン以上にフェアレディZにはこだわっているので、その走りは期待できると思う。
 ちなみにアメリカ市場では、相変わらずボクスター、AUDI TTなどと競合することになるが、ボリューム感などからいって、フェアレディZが有利かな?
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