スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

V型10気筒エンジン

 世の中でトップエンドのスーパースポーツカーと呼ばれる世界では12気筒エンジンを搭載することが常識であった。その象徴的な存在がフェラーリでありランボルギーニだ。他の圧倒する排気量やパワーが求められていたからだ。もちろん歴史上では16気筒といったエンジンもあったのだが。
 またプレステージリムジンの世界でも頂点には12気筒エンジンを搭載するという不文律もある。
 例えば1986年に登場したBMW・7シリーズはメルセデスを差し置いてV型12気筒エンジンを搭載している。このためメルセデスも91年にW140・Sクラスの上級グレードはV型12気筒を搭載し、グロッサーメルセデスとしての威厳を主張している。
 そういう意味では、12気筒はクルマの頂点を意味するエンジンだったといってもいいだろう。
 エンジンのパッケージとしても、従来はV型8気筒というレイアウトよりさらに大排気量を求めると12気筒とされるのが常識であった。
 しかし、その一方で2000年からF1グランプリでV型12気筒が禁止され、V型10気筒エンジンの採用が決定されると、これまでの常識が覆ることになった。
 V型10気筒というエンジンパッケージングはもともとは、トラック用のディーゼルエンジンのモジュール設計エンジンの1バージョンとして定着していたが、F1エンジンがV10になることが契機になり、一挙にスポーツカー専用エンジンとしてクローズアップされることになった。
 もっともスポーツカー用にV型10気筒が登場してきた理由は、もちろんF1エンジンというだけではない。
 もともとV型12気筒エンジンや水平対向12気筒(正確には180度V12)は、完全な等間隔爆発の直列6気筒エンジンを連結した究極の完全バランス・エンジンであり、大排気量のスーパースポーツカーや最上級のプレステージリムジンに搭載されたのもこの理由が大きかった。こうした12気筒エンジンは従来から存在した直列6気筒エンジンをベースにしたり技術的な経験を使用していることが多かったのだ。しかし、V10エンジンが登場する背景には、肝心の直列6気筒エンジンが次第に世の中から姿を消し、V型6気筒エンジンに転換しつつある時代と重なっているとも考えられる。
 V型6気筒は、直列6気筒よりエンジンルームのパッケージングが有利で、特に衝突安全構造と適合しやすいという理由で、従来は直列6気筒を搭載していたミディアムクラス以上のクルマの主流になり、それまでの常識であった直列6気筒は次第に姿を消す。
 もうひとつ、直列6気筒エンジンの長いクランクシャフトよりV6の短いクランクシャフトのほうが高回転化のために必要な剛性が高く、有利という点も上げられる。
 このように直列6気筒エンジンの存在が危うくなり、直列6気筒×2の12気筒の意義が薄れてくるのだ。
 新しいV型10気筒は、V型8気筒に2気筒を追加するという設計モジュールで成立することも見逃せない。
 V型10気筒は、V型12気筒よりパッケージ全長、重量、燃費で有利なのである。V型12気筒、水平対向12気筒エンジンの全長は直列6気筒エンジンよりわずかに長くなるが、V型10気筒エンジンはV型8気筒エンジンとV型12気筒エンジンの中間の全長に納まる。当然エンジン重量でも、V12とV8の中間になる。
 ただし、うまく設計するとV10はV8エンジンの全長よりわずかに長いといったレベルにまとめることもできる。
 V型10気筒エンジンが受け持つ排気量は5.0L以上となり、これは実質的に12気筒エンジンの排気量とオーバーラップし、今日の技術水準では出力的にも同等となる。
 V型10気筒エンジンというレイアウトでは、720度÷10=72度のバンク角が等間隔爆発となり振動面ではこの72度が有利だが、F1では90度バンク角が主流である。これは等間隔爆発という面より、全高を低くでき、Vバンクの谷間の吸気系のレイアウトも有利になるといったパッケージングの有利さを優先したためで、F1用エンジンでは90度以外にも80度、111度などの変わり種もある。、いずれにしてもF1用のV10はフォーミュラカーに搭載したときの重心の低さ、空力対策のパッケージングを追及した結果のバンク角になっているのだ。
 もっともスポーツカーエンジンが必ずしもすべてF1グランプリと関係があるわけではなく、まったく無関係なV10スポーツカーエンジンも存在する。
 1992年に登場したダッジ・バイパーRT/10である。バイパーは、大排気量エンジンを実現するためにピックアップ・トラック用のOHV・V型10気筒をベースにスポーツカー用にチューニングしたエンジンを採用したのだ。このOHVエンジンはその後には8400cc、600psにまで拡大されている。アメリカでV8エンジン以上を求めるとトラック用のV10しかなかったため、このような選択が行われたと考えていい。

 F1グランプリでのV10エンジンのイメージを利用しながら、ハイパフォーマンス・スポーツカー用の量産エンジンとしてV型10気筒エンジンを作り出したのはBMWである。
 M5用に開発されたV10エンジンは、大排気量でありながら高回転型にしたスポーツカー用のパワー ユニットだ。
 M5は以前のモデルははV8エンジンを搭載していたがよりハイパワーの新型M5にふさわしいエンジンとして、コンパクトで、高回転型の自然吸気エンジンという条件でエンジンのパッケージングを検討した結果がV10だったのである。このV10エンジンはレッド ゾーンが8250rpmで、高回転型レーシングエンジンの領域に迫り、リッター当たり出力は100 馬力を超えるレベルに達している。
 排気量は4999cc、ボア×ストロークは92.0×72.5㎜。圧縮比は12.0である。最高出力は507ps/7750rpm 、最大トルクは520Nm/6100rpmである。
 V10エンジンの左右 5 気筒から成るシリンダーバンク角を90度にし、クランクピンは左右バンク共通のクランクシャフトを採用し、コンパクト化をはかっている。BMWはF1では72度のバンク角を採用していたが、M5用は90度なのだ。
 クランクケースにはベッドプレート(ベアリングビーム)構造を採用し、高い剛性を得ることで燃焼時の圧力、エンジン回転数による高負荷に対応している。
 BMW は、量産型の V 型エンジン搭載車に初めてこのベッドプレート構造を採用しました。なおアルミニウム製のベッドプレートにねずみ鋳鉄製インサートが組み込まれている。これは、エンジンサウンドの改善や振動抑制による快適性の向上、そして高い潤滑効率の維持にも貢献しているという。ちなみにクランクシャフトは、6個のベアリングで支えられている。
 このエンジンに採用されているダブル VANOS(可変バルブ タイミング機構)は、充填効率の向上によりパフォーマンスの向上、トルクカーブの改善、最適なレスポンス、低燃費、排出ガスの低減を実現している。また、レスポンスを向上させるために各シリンダーに独立した電子制御式スロットルバルブを装備。
 エンジン制御ではイオン電流テクノロジーという新しい技術が採用され、点火プラグを利用してエンジンのノッキングの検知を行っている。このシステムは、各シリンダー独立でノッキングをピンポイントで検知できる。
 このように、BMWは単に高出力だけではなく最新の技術をV10に投入しているのはさすがにエンジンに極度のこだわりを見せるメーカーらしい。

assy.jpg
head.jpg
drive.jpg

 
スポンサーサイト

タクシーとバス




 日本のタクシーは、東京で1912年(明治45年)頃に走り始めたといわれる。使用されたクルマは輸入車のフォードT型だった。その後、フォードT型はタクシーの他に企業の業務車としても盛んに使用された。ただし、当初のタクシーの料金は高価で、庶民は利用しなかったのはいうまでもない。大体、東京で数百台、大正末期でも2000台くらいだったろうといわれている。
 タクシーが一般化するようになったのは昭和2年頃、東京市内均一1円の料金を採用した「円タク」が登場してからである。市内すべてが1円という料金とされたが、乗客は値切るのが普通で、距離に応じて30銭、50銭などで運行されたようだ。なお、タクシーの車両は多くはフォードA型だった。
 しかし、時代とともに戦時体制になり、ガソリンの民間使用が制限される。そして1937年(昭和12年)にはタクシーの流し営業が禁止になり、その翌年にはガソリンが切符制になるなど規制が強化されていった。
 太平洋戦争の始まった1941年(昭和16年)には、ついにハイヤー、タクシーおよびバスのガソリン使用が全面的に禁止され、以後は木炭自動車の時代を迎えることになった。
 では、東京のバス事情はどうか。
 1923年(大正12年)に、関東大震災が発生し、東京、横浜の市内は壊滅状態になり、路面電車も運行できなくなってしまった。復興を急ぐため、東京市の電気局(市電の管理部署)は市電が復旧するまでの代わりになる交通手段としてバスを使用することを発案し、フォード社に800台のエンジン付きシャシーのトラックを発注した。送られてきたT型トラック(TT)シャシーに日本で簡易的なバス型キャビンを架装して、バスに仕立て上げた。
 乗員は11人乗りで、T型をベースにしているためとても小型で、小さい車体は震災で寸断された市内の道路を走るには好都合であった。結果的には市民の貴重な交通機関として重用され自動車、バスが庶民に認識されるきっかけを作った。デザインは不恰好でユーモラスで「円太郎バス」と呼ばれることになった。円太郎とは明治期の落語家の名前で、明治期の落語の高座で、円太郎は当時の乗合馬車のラッパを出囃子に使用したのでラッパの円太郎と呼ばれるようになり、乗合馬車は円太郎馬車と呼ばれるようになった。
 落語家の円太郎は大震災の当時はすでに没していたが、乗り合いバスは以前の乗合馬車を思い出させ、円太郎バスと呼ばれるようになったといわれる。
 リジッドシャシーで、乗り心地はひどかったそうだ。
 円太郎バスは震災後わずか4ヶ月後の1924年1月から運行が開始され、年末までに800両が揃い、計20系統で運用された。バスが交通機関として機能できることが実証され、これ以後は全国に路線バスが拡大されていった。
 ただし、タクシーと同じく、昭和16年には石油燃料の使用が禁止され、それ以後は木炭バスの時代を迎えることになる。
 木炭ガス・エンジンは始動の数時間前から薪を炉で加熱し、発生したガスをエンジンに送り込む方式で、当然ながらガソリンに比べ十分な出力が得られず、上り坂で立ち往生しては、そのたびごとに乗客総出で後押をしたなどの逸話が多く残っている。
 こうした風景は、第2次大戦後のガソリンが市中に出回る昭和25年頃まで見られたのだ。

 今日、Co2の問題対策として、化石燃料の次の世代の燃料として代替燃料が話題を集めているが、日本では実は昭和10年を過ぎた頃、つまり満州事変から日華事変の過程で、すでに官民を上げて代替燃料の模索が行われていた。これは、石油はアメリカなどからの輸入に限られ、最優先で帝国陸海軍が使用するため、民間用は常に石油危機の状態にあったからだ。当時から、木炭ガスだけではなく天然ガス、合成燃料などの可能性が探られているのだ。
 日本と同じ石油資源を持たないドイツは、合成ガソリンを第2次世界大戦中に実現している。
 まさに時代は巡る、である。

フォードT型

主要ラインアップ

レイアウト


フォードT型が発売されてから今年で100周年を迎える。
デトロイトのピケット工場で最初の市販モデルTの1台がラインオフしたのは、1908年9月で、10月から発売された。販売価格は900ドル弱で、当時の乗用車は1000ドル以上であったから、コストバリューが優れていた。それにしても、このクルマはヘンリー・フォードが考えていた以上の爆発的なヒット作となり、大増産のため従来からあった他のモデルはすべて生産をストップし、T型だけをひたすら作り続けた。
また爆発的な販売にあわせて、フォードはいち早く全米にサービス拠点を配置し、補修部品を各地にストックさせたことでさらに人気は高まった。
T型は安いだけではなく、頑丈で信頼性が高く補修も容易だったし、運転のしやすさでも群を抜いていた。イージードライブであったため、初めてクルマを購入する層や女性層にも受け入れられた。

有名なライン生産方式も、最初から採り入れられていたわけではなく、増産のための必然であり、新工場のハイランドパークで、徐々に生産システムは洗練されていった。この過程でいわゆる非熟練工による流れ作業方式、作業時間管理、部品の互換性を高めるための規格化などを組み合わせた大量生産方式が確立されたのだ。
発売初期には1台当たり14時間を要したアッセンブリー所要時間は、ベルトコンベア式アッセンブリーが確立された1914年には1台当たり1時間33分にまで短縮されたといわれる。
この生産方式は、欧州では唯一、ソ連だけがフォードの提案を受け、取り入れた。
また、T型の量産効果により価格は低減され、発売後9年で360ドルに、そして17年後には290ドルにまで価格を下げている。発売当初の1/3の価格になったのだから驚かされる。
またその一方で、ヘンリー・フォードは、T型は完璧であり、モデルチェンジの必要はないと確信しており、1908年から競争力を失う1927年まで1500万台が生産され、ほとんど変更点はなかった。ボディ色
は後期までブラック一色と頑固だった。
ちなみにT型の生産数を上回ったのはVWビートルだけである。

T型のエンジンは水冷直列4気筒3ベアリング、サイドバルブ式。ボア×ストローク95.2㎜×101㎜で、排気量2896cc。出力20馬力/1500rpm、最大トルクは11.3kgm/1000rpm。低速トルク重視で実用性を第一に考えていた。また当時は2気筒ずつ構成したブロック・ヘッド一体構造が主流だったが、このエンジンは4気筒一体ブロック、シリンダーヘッド別体式で、剛性が高く、生産面でも整備面でも有利だった。
最高速は60km/hていど。モデル末期には他のモデルは100Km/h以上となったが、発売当時はアメリカの道路事情は舗装路は少なかったのでじゅうぶん高性能といえた。
エンジン

フライホイールには点火マグネットが一体化されていた。トランスミッションは革新的で、遊星ギヤ式だった。遊星ギヤにブレーキをかけることでローギヤとハイギや(直結)を切り替える方式で、その直後に多板クラッチがレイアウトされている。
操作は最初期型は2ペダル、2レバーで行った。2つのペダルはロー&クラッチとリバース、その後は、3ペダル1レバーの組み合わせに改良し、以後最後までこれを採用した。スロットルはレバーで操作する。またハンドブレーキを引いた状態ではクラッチは切断された状態になる。したがって発進はハンドブレーキを戻し、ローペダルを半分踏むとクラッチは切断さたままで、一杯に踏むとクラッチが接続してローギヤでクルマが動き出す。加速したらペダルから足を離すとハイギヤに切り替わるというものだ。つまり、ギヤチェンジで微妙なクラッチ操作が不要で、変速もダブルクラッチが不要だったのだから、当時はノンシンクロの普通の選択習動式変速機よりはるかにイージーだった。そういう意味でもT型は革新的だったのである。

シャシーはハシゴ式で、FR駆動方式。この時代の常識で、エンジンは前車軸より後方、すなわちフロントミッドシップ配置である。サスペンションは前後とも横置きリーフスプリングを使用したリジッドアクスルを採用。ダンパーは装備されない。
ブレーキは変速機後部にドラムを配置したセンターブレーキ式(後輪に作動する)、パーキングブレーキは後輪のドラム式だった。

T型フォードは1925年から、アジア初の工場として横浜のノックダウン工場((現在はマツダの横浜研究所)でも製造された。年間1万台の規模で、日本はフォードのT型乗用車(タクシー用)とT型トラックが席巻しようとしていた。しかし戦争が始まると、日本は1940年に国内自動車産業保護を明確にした「自動車製造事業法」を制定し、国内資本が50%以上の企業でなければ自動車生産を認めないことになり、フォードやその後大阪に工場進出していたGMは撤退している。

T型フォードは、1910年頃から1925年頃まで全米だけではなく世界を席巻した自動車であり、単に技術的に突出していただけでなく、量産が進むと価格が下がるという画期的な存在であった。
現在のクルマはいくら大ヒットしても価格は下がらない。
T型フォードはヘンリー・フォードという人の人格が表現されたクルマだったといえるかもしれない。
また、VWビートルと同様にフォードT型は自動車の歴史の中で突出した存在であることは間違いない。
プロフィール

TASG

Author:TASG
Mail:songben.haru@gmail.com

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
メモリーの格安通販
秋葉原の「上海問屋」
PC関連パーツ COREGA DIRECT
COREGA
日本HPのオンラインストア 
日本ヒューレットパッカード
雑誌 MOOK通販 Fujisan.co.jp
カーシェアリング
三井のカーシェア|カレコ・カーシェアリングクラブ
FC2レンタルサーバーLite
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

核心を追求する CAR サイト
ブログ内検索
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。