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ディーゼル昨今

 ディーゼル・エンジンは1892年の発明である。ガソリン・エンジン(オットーサイクル)の発明が1876年のことだから、ガソリン・エンジンと同等の歴史を持っている。
 当初は船舶用、潜水艦用、航空機用など大型のエンジンとして使用されたが、1936年にはメルセデスベンツが乗用車用(農耕機、トラック用はそれ以前に登場している)としては初のディーゼルエンジン搭載車、260Dを発売。戦後もメルセデスベンツでは一貫して乗用車用ディーゼルをラインアップしてきた。
 このためもあって、ヨーロッパでは、コンパクトカーからラグジュアリークラスまで、タクシーからVIPカーまでディーゼルエンジン車は幅広く受け入れられている。
 さらに乗用車の大幅な燃費の向上、Co2の削減が社会的なテーマとしてクローズアップされてくると、ヨーロッパの自動車メーカーはさらに新しいディーゼルエンジンの開発を行い、より高性能で排ガスのクリーンなディーゼルエンジンが登場している。
 周知のように日本、アメリカではディーゼルエンジン乗用車は乗用車として受け入れられていない。低出力、黒煙、騒音といったネガティブなイメージが定着してしまっていたからである。
 しかし日本、アメリカでも燃費のよさ、ディーゼルエンジンならではの強力な低速トルクが見直されつつあり、今後はディーゼルエンジンへのシフトも想定できるようになってきている。
 実際、日産、三菱、ホンダなどは2008年から2009年にかけて、アメリカ市場向けに新開発したディーゼルエンジン車を展開しようとしている。
 潮目は大きく変わってきたのである。
 
 しかし古くて新しいディーゼルエンジンがなぜ今注目を浴びるのか。それはディーゼルエンジンの本質を見ておく必要がある。
 まず、ディーゼルエンジンは軽油を燃料を使用し、ガソリンエンジンのような火花点火による燃焼ではなく、自己圧縮による圧縮点火、燃焼を行う点が大きく異なるところだ。
 ガソリンエンジンが点火による燃焼が行われるのは一定(10:1~17:1ていど。リーンバーンを行うには着火点付近に濃い燃料を供給する成層燃焼が必要)の空燃比の範囲内であるのに対し、ディーゼルエンジンは自己圧縮による着火、燃焼のため本質的に希薄な燃料での燃焼ができることが特徴だ。(ただし、この希薄燃焼が原因でNoxが多く発生することが避けられない)
 ガソリンエンジンは出力調整のために吸入空気量を制御するスロットルバルブを使用し、ディーゼルエンジンは直接噴射される燃料の量を調整することで出力のコントロールを行っている。ディーゼルエンジンはこのようにスロットルバルブを使用しないので、ポンピング損失が少ないという有利な点を持っているのだ。
 もうひとつの相違点は、ガソリンエンジンはある圧縮比(12:1以上)以上にするとノッキングが発生しエンジンが破壊されるが、ディーゼルエンジンの場合は20:1~14:1といった高い圧縮比(ディーゼルエンジンは、かつては20:1以上という高い圧縮比が一般的であったが、現在ではNoxを少なくするため、17:1以下の低めの圧縮比が採用されている)で燃焼でき、燃焼室は空気を圧縮した後に燃料を噴射するためノッキングの心配がない。
 ノッキングを恐れる必要がないためターボを組み合わせてより高い燃焼圧力、高出力を引き出す技術が現在のディーゼルエンジンのトレンドになっているのだ。
 このように、ディーゼルエンジンは圧縮比が高く熱効率がガソリンエンジンより優れており、ポンピング損失も少ないため、本質的に燃費、Co2低減には有利なのである。
 しかし、ネガティブな要素としては、黒煙の排出、排ガス処理の難しさ、特有のエンジン騒音といった面から、自動車メーカーにとってはエンジンのあらゆる部品を高強度にするためや超高圧燃料噴射システムなどコストが高くなるなどがあげられる。
 
 1978年代にメルセデスベンツはディーゼルエンジンに初めてターボを組み合わせ(W116:300SD)て高出力化に道を開いたが、90年代後半にはさらに大きな技術革新が行われた。ディーゼルエンジンの4バルブ化から、超高圧のコモンレール式燃料直噴システム、ディーゼル燃焼を制御するためのピエゾインジェクターなどが実用化されたのだ。
 コモンレール式はデンソーが実用化世界初で、乗用車用としては97年にボッシュが実現し、1600bar以上という超高圧噴射が可能になり、燃焼の安定や黒煙の低減が可能になった。またピエゾインジェクターは高速で燃焼するディーゼルエンジンの燃焼制御の道を切り開き、騒音や黒煙の低減、排ガスのクリア化に役立っているのだ。
 こうした技術を採用することで、新世代のディーゼルエンジンは、ガソリンエンジンの1.5~2倍の最大トルクを引き出し、動力性能はガソリンエンジンと同等か上回るようになってきている。
 そして燃料消費やCo2の排出はガソリンエンジンの約50%、さらに黒煙(黒煙の粒子状の物質:PM)、排ガスといったネガティブな部分も大幅に低減させることができるようになってきたので、それ以前より乗用車への適合性は高まったということができる。
 ただ、社会的な要請として、世界的に黒煙粒子のさらなる低減、ガソリン車と同等の排ガスレベルが求められているため、DPF(粒子状物質除去フィルター)、酸化触媒(Co対策)、Nox対策としてのNox吸蔵触媒や尿素還元式触媒システムの採用など、もともと製造コストの高いディーゼルエンジンのコストがさらに高くなる一方になっている。
 しかし、もう少し先を見てみると、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンより多種の燃料に対応できる能力を持っていることはメリットになる。
 てんぷら油はともかくとして、CTL、GTL、ATLなどの合成燃料を使用すれば、排ガスはよ
りクリーンにできるしバイオマス燃料であれがカーボンニュートラルに向かうことができるのは明るい材料だと思う。
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戦前の自動車雑誌

 今はない自動車雑誌のモーターファン誌は大正時代の最後の年にあたる大正14年(1925年)に創刊創刊されたと日本出版百年史に掲載されている。
 実は大正14年は、フォード社が横浜の子安地区にある組立工場を稼動を始めた年である。
 今では遠い過去とも言えるこの大正時代にさかのぼってその当時の背景を考察してみよう。
 歴史を世界的に見れば、大正時代はヨーロッパにおける第1次世界大戦(1914~1918年)の激動の時代である。当時、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたため、第1次世界大戦では中国のドイツ領の攻撃、地中海への海軍の派遣などを経験して戦勝国となり、太平洋のドイツ領の権益を獲得した。
 日本国内では大正12年に関東大震災が発生し、関東地方は大きな被害を受けたものの、復興のテンポは早く、第1次世界大戦の戦争特需のおかげで日本の造船業・繊維業・製鉄業が飛躍的な発展を遂げた。後進産業であった日本の化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦により自国での生産が必要とされ、一気に近代化が進むなど工業は目覚しい経済発展を遂げたのである。
 こうしたかつてない戦争景気の中で多数の「成金」が出現する。また、政府の財政も日露戦争以来続いてきた財政難をこの好景気で克服する事に成功している。つまり大正末期は空前の好景気の時代だったのだ。
 政治的には、真実の実態はともかく「大正デモクラシー」の時代で、好景気を背景に自由で近代的な風潮がもてはやされた。
 この時期、同じ戦勝国であるアメリカではフォードT型(1908年~27年)のモデル末期にあたり、大衆が購入できる自家用車として完全にアメリカ国内に定着していた。
 これに対してヨーロッパは第1次世界大戦の多大な被害をまともに受けたため、経済は一時的に大きなダメージを受け、自動車産業もアメリカほど活発ではなかった。
 アメリカでの自動車の活況は日本にも伝えられた。また日本では1918年(大正7年)に軍用自動車保護法が施行され、陸軍の主導による国産自動車育成方針が明確になり、重工業の基盤が確立されたことで日本の自動車産業にようやく日が差しつつあった時代であった。
 自動車保護法を適用した第1号は東京瓦斯電工業のトラックだった。(後のちよだ号)
 大正12年には、白楊社が初の国産車「オートモ号」を製造した。(ただし、大正6年に三菱造船が三菱A型を製造し、これが国産1号という説もある。A型は大正10年までに22台が製造されたという。いっぽう、オートモ号は約300台が生産、販売され、上海へも輸出されたという)
 なお大正14年の時点で、日本の乗用車台数は2万6千台あまりであった。
 大正15年(昭和元年 1926年)に豊田佐吉氏が豊田自動織機を設立し、自動車産業では同年にダット自動車製造から発展したダットサン自動車製造が設立されている。
 一方、1925年にはフォード社は横浜に近代的な自動車製造工場を設立した。この横浜工場が本格的に稼動すれば、当時の日本の自動車はフォードが席巻する可能性もあった。ここではT型フォード(後にA型にモデルチェンジ)とトラックのノックダウン生産を行い、年間生産1万台の体制を築こうとしていた。フォード・トラックは関東大震災の復興に貢献し、陸軍でも採用され、日本製のトラックより信頼性が高かったという。(日本政府は1936年に国内自動車産業保護を明確にした「自動車製造事業法」を制定し、国内資本が50%以上の企業しか自動車生産を認めず、フォードは1940年に操業を停止した。またGMは1927年に大阪工場を開設し操業したが、これも自動車製造事業法の影響で1941年に操業を停止した)
 また国産技術を重視する陸軍の支持を受け、1932年(昭和7年)には日本内燃機が発足。
 豊田自動織機は、昭和8年(1933年)に豊田喜一郎が主導して自動車製造を行う自動車部を設立した。
 このように、日本の自動車産業はまさに揺籃期の時代にあった。
 軍用乗用車としては、1933年(昭和8年)に石川島自動車製作所で作られた「スミダ九十三式J型(4輪)、K型(6輪)」が登場している。これは指揮官用の乗用車のため、少数の台数が製造されたに過ぎない。
 また、日本内燃機は陸軍からの要請により戦場での指揮、連絡用として小型の乗用4輪駆動車の「くろがね四起(九十五式小型乗用車)」を開発し、昭和10年に製造を開始している。
 航空機の分野でも国産技術の育成策を基盤にして中島飛行機製作所が軍用機開発・製造の規模を大幅に拡大して中島飛行機に成長したのが昭和6年(1931年)である。
 自動車の国産化の胎動という時代背景のもとで大正14年にモーターファン誌が創刊されたのは、先見の明があったともいえるし、ある意味で必然的であったといえる。
 なお、戦前のモーターファンの発行会社はモーターファン社で、発行場所は、「東京市蒲田区安方町137」(現在の蒲田駅の南西・多摩川寄り)、発行・印刷・編集人「八木熊五郎」。
 八木熊五郎氏の人となりは現在ではまったく不明であるが、社主であり編集主幹を務めていた。
 この本社以外に事務所として赤坂・溜池、名古屋支社があり、大阪、仙台、京都、台湾に支局を配するなど、かなりの規模であったことがうかがい知れる。
 雑誌の内容的には、海外の自動車事情や新型車(オートバイ含む)情報、技術解説、整備解説、その時代の自動車政策、業界ニュースなどを掲載していた。当時の自動車工学の権威の大学教授や警視庁の自動車免許課、現在の経済産業省に相当する商工省の輸送機械課長などが執筆していた。
 戦前のマーターファン誌は、昭和19年3月号まで発刊されていたが、これ以後は戦争の影響を受けて休刊となっている。
 また戦前の自動車雑誌では、大正14年に月刊の「自動車と機械」(宇陽社)があり、より一般のクルママニア向けに「流線型」という雑誌がポピュラーであった。「流線型」はトヨタがサポートした雑誌だ。
 オートバイ専門誌は、大正12年にオートバイ雑誌社(現在のモーターマガジン社)が発行した「オートバイ」誌があった。
 また山海堂からはエンジンなどの専門書籍が出版されていたことは知られている。
 
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